虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

空談という井戸端会議:私は「ああした、こうしたブログ」が嫌い

空談という井戸端会議:私は「ああした、こうしたブログ」が嫌い


「空談」と言う言葉はドイツの哲学者:マルティン・ハイデガ-(1889-1976)が発案したものですが、以下のように説明されます。


ドイツの哲学者・ハイデガーが用いる基本概念。語りの頽落形態であり、お喋り・井戸端会議などがそれに当たる。つまり無意味な会話のこと。


頽落とは:頽廃してしまった人間存在。堕落と言い換えてもよいだろう。ハイデガーの言葉。

はてなキーワード「空談」「頽落」


この説明にピンと来ないひとは、たぶんこの種の問題を考えたことがないだろうと思います。以前私がいた職場で、昼食時、男女三々五々、好きな席に座り雑談していた時、ある女性が「カボチャの種は食べられるんですってね」と言ったので、私が「食べたことあるの?」と訊いたら「ないです」と答えたので、私は「カボチャの種だったら食べたことがあるよ。美味しいよ」と言ったのですが、彼女は不機嫌な顔をして話を打ち切りました。私は会話が続くことを期待していたのですが・・・


この場合、彼女は「カボチャの種を食べる」云々が話しのテーマだったのではなく、ただとりとめもないお話のテーマとも言えないテーマとして、しゃべっていたことに過ぎないと思います。私はカボチャの種についての「真理」という情報を彼女に投げかけたのですが、彼女にとっては単なる雑音で、無視したというわけです。


この例のような事例は結構あると思います。ハイデガーの言う「空談」とは、このような場合に意識されます。思えば、真理を述べるのではなく、やったこと、見たことなどをブログ上で「ああした、こうした」とのんべんだらりとつなげるブロガーは多いです。だいたい女性ブロガーにその傾向が顕著です。私はこのようなブログを「ああした、こうしたブログ」と呼んでいます。


思うに、これは人類の歴史において、太古からの男女の役割分担を引き継いだものなのでしょう。男性は狩りに出て、メンバー同士が必要最小限の情報のやり取りを行う単発的な言語が発達しましたが、女性は、採取・調整などの面と向かって長時間行う作業を行うので、結論の出ない、延々と続く・お互いに傷つけ合わない・当たり障りのない・おしゃべり・・・まあ、井戸端会議ですね、を行う言語が発達したわけです。井戸端会議は、今でもその主体は女性であると思います。


このような、女性の基本的な言語生活の態度、一概に責める意図はありませんが、私自身は「ああした、こうしたブログ」は読みにくいです。読むのが苦痛です。以前も、そういった女性ブロガーとは袂を分かったことが一再ならずあります。


もっとも、ハイデガーという哲学者は、空談に陥るのを忌避して、そのような井戸端会議的活動を抑圧する態度に出て、ナチス・ドイツの思想的背景になったことは特筆すべきでしょう。女性が行う平和な井戸端会議を排して、男性の論理が優先する戦争を肯定したのですから。


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マルティン・ハイデガー(wiki)


今日のひと言:実存主義哲学者のなかで、その思想が比較的しっくりくるのは、ニーチェハイデガーなどのドイツ人哲学者です。デンマーク人のキルケゴールなど、いちど本を借りたことがありますが、難しそうで読めず・・・(あとで読みました、概説を)フランス人のサルトルなどにはさほど食指が動きませんでした。男女の別に関係なく、私は空文(この用語、ハイデガーが言ったかどうかは不明ですが、大いに言っただろうと思われます)を書いたり空談したりする人は、基本的に相手にしないことにしています。ある女性ブロガーに言われたのですが、「森下さんのブログは、☆狙い目当てで訪れる人がいなくて羨ましい」と。


幸いにも、私のブログのコメント欄は確かに、世の中のことを、真剣に考える人たちが多く来て、空談、空文を弄する人は少ないです。自分のブログが空文、空談をしているか、どうかは、「読者数が多い人ほど、陥りやすい」と思うのです。当該ブロガーが空文を書かなくても、コメント欄に夥しくやってくるブロガーが空文を書くので、管理者も、それに応じて空文を書くことになるのです。これは、延々と「空:くう」とのやり取りが続く「ブログ地獄」と言っても良いでしよう。(もっとも、そんな状況になっても、元気に応じる人もいて、それはスゴイことだと思います。体力とガッツがあるのですね。)空文を書く人は、自分の文章が空文だとは思っていないケースがほとんどです。ここが問題なのです。


そこで、詩を一つ。(ある知り合いの女性をイメージして・・・)



空談だけで
出来ている女
――それも見事。

 (2020.10.27)


PS:「20世紀最大の知性」とも評されたフランスの詩人:ポール・ヴァレリー(1871-1945)に『テスト氏との一夜』という過激な散文詩の集成(小林秀雄:訳・・・だから過激なのですが)があり、その中で「私は、普遍という物に到達しない物の見方をすべて殺す」という一句が出て来ます。中途半端な意見を無効にしてしまう、と言うのです。この立場は、期せずしてハイデガーの「空談」と重なって見えるのです。活躍する分野が、かたや哲学、かたや詩であっても、見つめることは同じなんだな、と思います。


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ポール・ヴァレリー(wiki)


iirei.hatenablog.com


PSのPS :とは言っても、「ああした、こうしたブログ」を書く人と、ブログのコメントやレスをやり取りするようになる場合、その特質に思いを致し、そうでないようなブログの書き方を示唆するのも面白いかな、と最近思っています。




ヴァレリー詩集 (岩波文庫)

ヴァレリー詩集 (岩波文庫)

ムッシュー・テスト (岩波文庫)

ムッシュー・テスト (岩波文庫)




今日の一品


@タコスミート掛けスパゲッテイ


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メキシコ料理の構成要素のタコスミートを使ってみました。少々ボソボソしましたが、十分美味しかったです。

 (2020.11.14)



@アボカド・トースト


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「森のバタ-」と言われるアボカドをスプーンですくい取り、パンに乗せて焼きました。出来上がったところで塩を振り掛けたワイルドな料理。ペースト状にして焼いたほうが美味しかったかも。

 (2020.11.15)


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改良型:アボカドとマヨネーズを焼きました。こっちのほうが美味しい。

 (2020.11.16)



チンゲンサイの「カレイの中骨煮つけ」焼き


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無人野菜販売所で2袋買ってきた大部のチンゲンサイ、株本と葉を切り分け、油で株本から炒め、葉を入れ、しんなりしたところで、缶詰から投入、醤油も少々足して炒め、仕上げに山椒。(缶詰はキョクヨー社製)

 (2020.11.16)



@サゴシ(幼いサワラのこと)の塩麹コチュジャン焼き


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弟作。(アイディアは私)両調味料を混ぜあわせ、魚に塗って2時間、レンジでチン。

 (2020.11.16)



@ラム・ネギ炒め・ローズマリー風味


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玉ネギの代わりにネギを使い、塩味のみ、ローズマリーの葉をみじん切りにして最後に加え、一品としました。ちょっと天塩が多かったみたい。料理の塩梅(あんばい)は難しいです。この一品、辛うじて食べられる範囲内でした。

 (2020.11.18)






今日の三句


楡の木を
チェンソー掛けて
殺しけり


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電気線などを地下に敷くため、邪魔な楡(にれ)の木を伐採していました。

 (2020.11.16)



寝る間際
子犬のワルツ
聴き惚れる


ショパンの名曲。「ねこじゃらし」「えのころぐさ」を連想しますね。「えのころ」とは犬のことでしょうか。

 (2020.11.17)



ああ無情
ベッチを蒔きて
雨降らず


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ベッチとは除草作用のあるヘアリー・ベッチのこと(マメ科)。10月下旬に蒔いてから、ここまで1度、小雨が降った程度。芽の出ないうちに、真冬か。手前にあるのはコンポスター。

 (2020.11.20)







☆☆過去ログから厳選し、英語版のブログを始めました。☆☆



“Diamond cut Diamond--Ultra-Vival”

 https://iirei.hatenadiary.com/


ダイアモンドのほうは、週一回、水曜日か木曜日に更新します。


英語版ブログには、末尾に日本語ブログも付記します。記事は
虚虚実実――ウルトラバイバルとはダブりませんので、こぞって
お越しを。