虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

堀辰雄と「風立ちぬ」

堀辰雄


 高校時代の現代国語の教科書に載っていた随筆に「大和路・信濃路」という作品があり、早春の長野県の谷間を走る電車の車窓から、春の訪れを告げる「辛夷(こぶし)」の白い花を夫婦で探す逸話が載っていました。春の清新さ、辛夷の花から滴り落ちる雫の気高さを十分に味あわしてくれる勝れた描写が印象に残っています。夫婦仲も大変に円満で、しっくり行っているとも思われました。


 作者は堀辰雄、昭和期(主に戦前)に活躍した作家で、芥川龍之介室生犀星の弟子筋に当たります。ドイツ語、フランス語に堪能で、これらを母国語とする優れた作家・詩人・・・例えばライナー・マリア・リルケとかポール・ヴァレリーとか・・・をゆっくり消化して作品の構想を練った遅咲きの作家です。


 ここで取り上げる「風立ちぬ」の表題は、そのポール・ヴァレリーの長詩の一節から採られています。(「海辺の墓地」)


Le vent se leve, il faut tenter de vivre.


風立ちぬ、いざ生きめやも。=風が立つ!・・・いまこそ生きなければならぬ!)


     (フランス詩集  浅野晃 編:白凰社 より)


この小説では、婚約した男女の愛の顛末を描いています。女性は、堀の実在の婚約者・矢野綾子がモデルであろう節子がヒロイン。現実の事象と小説が二重写しになっているものなのです。その意味で「風立ちぬ」は自伝的小説と言ってよいかも知れません。


 結核を病む節子が八ヶ岳山麓サナトリウムに入所するのに付き添ってここに居を移した私、愛情をもって誠実に節子とともにいますが、節子の病状は極めて悪く、生きていくのがとても辛そうです。でも、彼女のその死まで、私は見取ります。そして作家根性の溢れることには:


私はそのとき咄嗟に頭に浮かんできたある小説の漠としたイデエをすぐその場で追い廻しだしながら、独り言のように言い続けた。「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれたちがこうしてお互いに与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、――そういった誰も知らないような、おれたちだけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう?」


「分るわ」彼女は自分自身の考えでも逐(お)うかのように私の考えを逐っていたらしく、それにすぐ応じた。が、それから口をすこし歪めるように笑いながら、
「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」と私を軽くあしらうように言い足した。

「日本文学全集50 堀辰雄」(集英社)P134―P135


こんなどん底の二人にとっての「幸福」とは、何であったか、深く知りたいところです。私には解らないかもしれませんが、たしかに彼らは「幸福」を感じているのですね。(当時、結核は今でいう癌以上の死病だったことを想起すべきです。著名な文学者が多くこの病気に倒れています。)


堀辰雄の略歴:


府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、終生の友人となる。また、高校在学中に室生犀星芥川龍之介の知遇を得る。一方で、関東大震災の際に母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間であったといえる。


東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄永井龍男らの同人誌『山繭』にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。堀の作品の独特の雰囲気は、この両者からの影響をうけたことともつながっている。


1926年に中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊。 このころは、『水族館』などのモダニズムの影響を強くもった作品もある。1927年、芥川龍之介が自殺し、大きなショックを受ける。この頃の自身の周辺を書いた『聖家族』で1930年文壇デビュー。 肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこしたことにもつながっていく。また、病臥中にマルセル・プルーストジェイムズ・ジョイスなどの当時のヨーロッパの先端的な文学に触れていったことも、堀の作品を深めていくのに役立った。後年の作品『幼年時代』(1938年-1939年)にみられる過去の回想には、プルーストの影響を見る人も多い。


1933年、軽井沢で矢野綾子と知り合う。その頃の軽井沢での体験を書いた『美しい村』を発表。1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその冬に死去する。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となった。この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用している。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受け、王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。


1937年、加藤多恵(1913年7月30日−2010年4月16日、筆名として多恵子を使用した)と知り合い、1938年、室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵と結婚。身近な人を次々と亡くし、自身も肺結核と闘病する辰雄に多恵夫人は生涯尽くし続けた。

Wikipedia より


今日のひと言:「大和路・信濃路」に登場する奥さんは多恵子夫人だったのですね。にしても、堀辰雄は女性についてのことがらをよく知っており、どんな女性とでも友愛な関係が結べる人だったのですね。心優しき人だったのです。


なお、私は小説の感想を述べるのは不得手です。小説の中身ではなく外形を見ちゃうのです。その意味で私のブログ友達のhatehei666さんが「風立ちぬ」について鋭い分析を書かれていますので、参考にしてください。:「堀辰雄の『風立ちぬ』」

http://d.hatena.ne.jp/hatehei666/20121025



風立ちぬ

風立ちぬ

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

大和路・信濃路 (新潮文庫)

大和路・信濃路 (新潮文庫)



今日の料理

 ニラ、クコの実、卵のラスタカラー炒め

ニラの緑、クコの実の赤、卵の黄色で「ラスタカラー」と洒落ました。この呼び名は、弟の命名エチオピア国の国旗の色であり、ボブ・マーレーラスタカラーと称していた「緑・赤・黄」をあしらったわけです。ニラと卵の組み合わせは目の健康に良く、おなじく目によいクコの実を炒め合わせました。シーズニングは塩と胡椒。



今日の一首

春共に
甦りしか
タンジー


「不死」と呼ばるる
ハーブからし


キク科のハーブ・タンジーは、「不死」という語源を持っています。かつては西欧でよく利用されましたが、毒性があるということで、最近ではさほど栽培されていません。私は、これまで2回このハーブを栽培しましたが、少量の葉を刻んで卵焼きに入れて食べるなどしています。「おごそかな」風味になります。黄色い花はなかなか色褪せないため、ドライフラワーとしても利用されます。また、妊婦には禁忌です。・・・この株、枯れてしまったかと思っていたら、春になりまた芽吹いたのが嬉しかったです。

 (2013.03.15)