マンガと私(その2:2/2):マンガはイマジネーションの源泉(随想録―13)
マンガと私(その2:2/2):マンガはイマジネーションの源泉(随想録―13)
私が「はてなブログ」を始めて18年、これまで、思い浮かべられる限り、3回ほど、ブログ本文や詩の根拠として、マンガ作品があった。高信太郎のセクシャルな4コママンガ、しりあがり寿の『ヒゲのOL薮内笹子』、そして藤波俊彦の『EDOMAE ・A・MERICAN :江戸前・あ・めーりかん』の3作品だ。私はパクってはいない積りだが、客観的に見れば、パクリに近いと言えよう。どれもシュールな作品だった。
今回は、このうち、『EDOMAE・・・』について書いてみよう。原作のマンガには、ファンキーなキャラクターが多数登場するが、そのうち「板橋のりあき」さんは、頭頂が平らで、その上に「味噌」を乗せている。(これは本人の弁。)でも、登場する女性の「おとこ」(音子)さんから見ると、「うんち」にしか見えない。このギャップに笑えるのだが、この異常なキャラクターと、その姿からイメージされる心理的複合体(イマジネーション群:私の造語)を、私は、忘れずに長く保持したのだ。
後に、お釈迦さまの頭に生えている、螺旋を巻いた頭髪(螺髪という)を思い浮かべたとき、私は、一瞬で、上で触れた「頭にうんち」のイメージがつながったのだ。そこで、私は1ブログを書いた。「お釈迦さまは、頭にうんちを乗せている!」と。「板橋のりあき」さんと「お釈迦さま」、そんなに違うものではない、と。
これは、いわゆる論理によって導かれる発想ではなく、心理的複合体(イマジネーション群)の力によって、超・論理的に出て来る体(てい)の発想(イマジネーション)だと思う。その視覚的発想力は、私にとって、武器・宝物だと考えている。実際、1枚の絵と言えども、マンガのイマジネーション群のパワーは、バカに出来ないものがある。自殺した天才女性マンガ家の「ねこぢる」が描いた「ころぺた号」には、のけぞったものであり、この絵を忘れることは決してないだろう。:ゴキブリの体と羽根を持ち、後ろ足は前後逆さま、前足は車輪(一輪)、首に道教の太極図、頭は釈迦で火を吐くモンスター。
(2022.04.08)
PS:イマジネーション群を、既存の心理学用語でいえば、ゲシュタルトになるだろう。以下のように。
(Gestalt 「かたち」の意) ゲシュタルト心理学の基本概念。 部分からは導くことのできない、一つのまとまった、有機的・具体的な全体性のある構造をもったもの。 形態。
コトバンクより
まあ、「ころぺた号」が、部分部分でというより、全体として初めて統合された存在になることが、ゲシュタルトといったところだろう。
↑私が描いたマンガの一コマ。
今日の6句
初に見た
五葉アケビの
新芽かな
(2022.04.05)
ホトケノザ
農地の化粧
艶やかに
(2022.04.06)
赤銅の
顔を持つなり
パンジー花
近くの保育園の花壇。
(2022.04.06)
ツバメ飛ぶ
番い(つがい)なる二羽
晴れ晴れと
(2022.04.09)
灯台草
巨大な群落
営なめり
これほどまとまっているのも珍しい。薄緑なのがトウダイグサ。
(2022.04.09)
エニシダの
黄花豆の木
不羈に立つ
(2022,04,09)