梅原猛の羅漢論
十六羅漢(らかん)という永遠の仏道修行者たちの一人、戎博迦尊者(じゅばかそんじゃ)を取り上げます。どんな人かと言えば、
第九番目は、戎博迦尊者というのだ。ジュバカ尊者はいつも横向きにすわっている。そしていつも己れの半面しか見せないのである。そして左手に扇を握り、右手は三本の指をまげて、二本の指をのばしている。多くの人はいう。ジュバカは、左手に扇を握って、右
手に拳を握っていると。けれど、そういわれたときジュバカ尊者はにやりと笑うのである。よく見てごらんというのである。私は扇なんか握っていやしませんよ、拳なんか握っていやしませんよ、というのである。けれど私が何度見ても彼は左手に扇を握っていて、右手に拳を握っている。どうも変である。
そしてなぜ彼はいつも横向きばかりにすわっているのであろう。彼にその理由を聞いたけれど彼は笑って答えない。そして相変わらずよく見よというのである。彼の言葉の謎は半分はとけた。右手である。右手は拳を握っていると私は思ったが、じっさいはそうではない。拳を握っているように見えるのは、三本の指がまげられているからだ。あとの二本はのばしているが、こちらから見ると三本の指のみが見える。三本の指がまげられていると、あとの二本の指もまげられて、拳をむすんでいるのではないかと人は思う。しかし、それは人間の錯覚にすぎない。
(中略)
扇を左の手に持っているのではなくて、扇で手を握っているのではないかという。扇で手を握っているというとは、いささか妙な理屈である。しかしここで起こっているのは、二つのものが出あっているということなのである。手と扇、あるいは人と物、それが出あっている。人の立場、手の立場に立てば、人あるいは手が主体である。そこで手は扇を握るという。われわれ人間は、こういう人間的主体中心の世界に住む。けれど物の立場に立ったらどうか。物が主体になることだってありうる。それゆえ物が手を握るといったとて、変ではない。
「羅漢 仏と人のあいだ」(梅原猛:講談社現代新書)P33−P35)
以上引用した戎博迦尊者のほかにも15人、個性的な人物たちの群像が語られます。羅漢という概念は原始仏教に端を発します。元の言葉は「阿羅漢」で、梵語で「arhan」仏教の修行の最高段階、またその段階に達した人(広辞苑)で、いわゆる小乗仏教の概念でしたが、大乗仏教が興り、羅漢という存在は消し去られます。ところが、中国に仏教が伝来した際、そこに老荘思想(老子、荘子などの哲学)が既にあり、仏教と結合して、あらたに「禅宗」という一宗派が誕生します。そこでは、羅漢という存在も復活するのですね。上の引用の最後の連、この発想はまさに老子のそれと変わりありません。物事の2面性という意味では、やはり中国哲学の易経(えききょう)の発想と同じです。
この本を読んだ私は、大学生活1年目の終わりの春休み、(このときはその年、初めて実施された共通一次試験のさなかでしたが(現在の大学入試センター試験))、南房総にスケッチ旅行に行き、鋸山(のこぎりやま)の1500羅漢をスケッチブックにいくつか記しました。本来は16人の羅漢だけだったのが、18人に増え、さらには日本で500羅漢、1500羅漢というように、当初の難しい哲理を語る羅漢ではなく、人間味溢れた羅漢信仰に変わっていきました。ゆるいとは言え、日本人にも受容されたのですね。たとえば埼玉県・川越市の喜多院にある羅漢の群像は有名です。そこには、哲学的に峻厳な羅漢ではなく、庶民的感覚の仏たちがいます。
私にとって、梅原猛さんのこの本は、記念すべき本の一つになりましたが、碩学・梅原猛さんにとっても、思いいれのある本のようで、前書きにこうあります:
この本は、私の書いた多くの本の中で、最も奇妙な本である。私はかつて、こういう種類の本を書いたこともないし、また今後もこういう種類の本を書かないであろう。最近、この本を読み返して、私は思った。一体、どういう精神の状態で、私はこの本を書いたのであろうか。はたして、これを書いたのは、本当に、私自身なのであろうか。
(中略)
私のことを、詩人と称する人がある。それは誉めことばあると共に、貶しことばでもあろう。誉めことばとすれば、それは私の著作が詩的情感に溢れたものであるという意味でもあろうし、貶しことばとすれば、それは学問的実証性の乏しい詩的空想力の産物にすぎないという意味でもあろう。
まあ、批評は各人にまかせよう。しかし、私自身としては、もしも想像力の過剰に苦しむ人間を詩人と名付け、想像力の貧困に耐える人間を学者と名付けることができるとすれば、私は学者の領域より以上に詩人の領域に属する人間であると思っている。
今日のひと言:私にとっても、梅原猛さんのこの本は、私という小宇宙に響き、以後の私の活動に大いに影響をあたえたのです。
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今日の料理
@クコの葉の卵とじ
クコはナス科の野草(小木:葉は互生)。この草は春と秋に葉が収穫でき、夏に咲くナスに似た薄紫色の花も食用に出来、晩秋に実る小さなラグビーボール状の赤い実は、ほのかに甘味を持ち、色々な用途に使えます。冬は根を掘り出し、根の皮を取ってジコッピ(地骨皮)という漢方薬の生薬になります。(もっとも、花を食べるのは、少量であるし、秋の実が採れないのですから、味見程度にするほうが良いでしょう。)
今回お見せするのは、葉を使った卵とじです。
柔らかい枝ごと摘み、適当に刻んで、砂糖を適量混ぜた麺類のつけ汁を少々水で薄めてから、鍋に火をかけ、熱した汁に葉を30秒ほど茹で、溶き卵を流しいれます。味はツクシでつくる卵とじに似ていますが、料理できる期間は長く、野草の野趣が満喫できます。(夏になると、葉がうどん粉病のようになり収穫しないほうが良いですが、秋にはまた収穫できます。)
今回写真は、汁気が多くなりすぎたようです。
(2013.04.12)
@アザミの和え物
アザミは意外なことに食用になる野草です。ほかのキク科の野草のように、苦みが持ち味です。
ただ、ストレートにその苦さを味わうのではなく、マヨネーズ(+ワサビ)で和らげて食べることにしました。@野草を採取するにあたり、農薬がかけられてないか、しっかり確かめる必要があります。@
参考にしたHP:
http://www.baxtukya.com/azami.html
(2013.04.14)
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今日の一句
香りよし
カッパに巻くか
キュウリグサ
キュウリグサは春先に見られるムラサキ科キュウリグサ属の野草です。名前の由来は、葉や花を揉むと、キュウリの香りがするところから。食べられるらしいです。
(2013.04.14)