シャカ・バカ(シャカ・釈迦とは、仏教の開祖のこと)
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(仏教シリーズ その2)
これより、「仏教」の論理体系自体を破壊しようと思います。なに、1ブログで十分です。3段構成にします。1)「四箇の格言」の破折 2)出家に当ってのシャカの心理 3)法華経の無意味性の実証 ・・・・では行きます。
1)「四箇の格言」の破折 「四箇の格言(しかのかくげん)」とは、日蓮が自分の教えを広めたいと考えた際、既存の仏教を否定した際に使ったロジックです。
「大聖人は「念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊
の妄説」(御書173ページ)とも、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(御書71
3ページ)とも仰せになっています。」(出典:「教学の基礎」・発行所:聖教新聞社:1988年版)
(私は以前、縁あって、創価学会会員と知り合いになり、この学会員向けテキスト「教学の基礎」を頂きました。それをネタ本にして書いていきます。)
この短い引用では理解しにくいでしょうから書きますと、「大聖人」とは「日蓮」その人のことです。「御書」とは、日蓮が直接書いた文献のことです。
ここでは4つの既存仏教が槍玉に挙がっていますが、その中の「禅天魔」について考察します。「教学の基礎」の筆者が問題にする第一の点は、禅宗が「不立文字(ふりゅうもんじ)」というスローガンを掲げていることにあります。つまりは、「仏教の経典(仏典)は、月を指す指のようなものであり、月を認識した時点で仏典は不要になる」といった禅宗の立場を批判しているのです。仏典、なかんずく法華経をないがしろにするとはもっての外、という訳です。
日蓮を信仰する人たちの通弊として、日蓮が仏典を比較・解読する教学者に過ぎなかったことを見過ごす点があります。仏典といえども書物であり、書物については「固定的な」読み方をしていては真理には到底到達できません。日蓮はその「固定的な」読み方しかできなかった半端な僧侶です。この程度の僧侶は中国・唐の時代にはゴマンとおり、全て禅宗の高僧に破折されています。また、禅の僧は、仏典をないがしろにしていたのではなく、「一面的な解釈」を戒めるために「不立文字」を言ったに過ぎないのです。
さらに、日蓮の行動の不合理性について書きます。彼が「法華経に帰依しなければ外国に攻められるぞ」と言っていたのは有名な話ですが、そう言った際の彼の目的はなんだったのでしょうか?それは
① 日本を外国の侵略から守ること
② 日蓮本人の教えを広めること
の2点に集約できるでしょうが、当時の鎌倉幕府の高官はだいたい禅宗に帰依していたわけですから、『禅天魔』などと言っていては迫害されるのは当然で、「竜の口の法難」などは、自分自身で招いた苦難でしかないでしょう。日蓮が真に日本を国難から救いたかったのなら、幕府高官に取り入るためにも、禅宗を批判するのは避けるべきでしたね。そうしなかったところを見ると、日蓮はただ単に②の自説の普及のみを志向していたことになりますね。うーーむ、語るに落ちたな。
2)出家にあたっての釈迦の心理
釈迦は、甘やかされて育った王子、たまたま城外に出たら、「生老病死」という現実に出合って悩んだとのことですが、こんなくらいの、苦しみなんて;アーーーたりいーーーーまーーーーえ!!!!釈迦は
どうしたら、王子のままでいられるかとの策略をめぐらしたにすぎません。こんなのがロシア帝国の開祖にして暴君である・ピョートル大帝(ПЁТЛ)の前に引き出されたら、ああ、あのバカか。(あまりにしょうもないので、かろうじて大帝に覚えられていたかいないか)お前、また死刑。と宣告されるだけの小物にすぎません。(漢の武帝も、釈迦も、ピョートルのまえでは「罪人」でしかありません。)こんな無価値な釈迦を仰ぐやからは、ピョートルの眼中にも入らないでしょうねえ。ほら、仏教信者のあなた、ピョートル大帝に抹殺されますよ。)
さて、罪人=釈迦を旗印にしないで教理がたてられる仏教の宗派があるでしょうか?
百丈系の禅以外には皆無です。あなたは黄檗(おうばく)を知っていますか?彼なら大帝と飲んだくれられるでしょう。)仏教を標榜する人は、「どれだけ釈迦に立場が近いか」を競争しますが、以上の記述でそれがいかに「自分がバカであるか」を表明するに過ぎないことかが解かると思います。
ところで、
般若心経を数学に置き換えると
−1+1=0
というあたりまえのことを言っているにすぎない。このことは、次の詩で言い尽くされているよん。
不増不減
詩人サカキナナオに捧ぐ
若さを失う。
それは
老いを得ること。
No Problem!
森下 礼
05.11.13 21:03
BGM:「土星」from 惑星組曲
byホルスト(holst)
3)法華経の無意味性
いいかげん、面倒になってきたので、要点だけ書きます。
①無意味な比喩に満ち満ちている 例えば 「地湧の菩薩」
②釈迦の出世の本懐を述べると看板を掲げながらも、なにも語っていない。
こういうのを中国では「羊頭狗肉」という。
③ ただ、因果具時という概念には見るべきものがあることを否定できない。でも、このくらいのことは、単なる常識です。
今日のひと言:解ったかな?シャクブクではなくシャカバカをやったのです。