「海も暮れきる」・・・尾崎放哉・最期の8か月
俳句特集 その3
(今回のブログは、ブログ仲間の「てくっぺ」さんの推薦で読んでみた二作品を取り上げます。)
吉村昭さんのものした「海も暮れきる」を読みました。この中篇小説は、明治・大正期を生きた俳人、尾崎放哉(おざき・ほうさい)の、小豆島(しょうどしま)での最期の8ヶ月を綴ったものです。
尾崎放哉は、つとに俳句の才能を示していましたが、東京帝国大学法学部を卒業し、東洋生命保険会社の東京本社契約課長になりました。でも彼は酒癖が悪く、朝から深酒をするは、酒席で飲み相手に執拗な絡み方をするは、で、会社を首になってしまいます。そして拾われた太陽生命保険会社でもおなじ失敗をして首になります。そして最愛の妻・馨(かおる)とも別れ、ひとり孤独なわび住まいを求めるに至ります。そこで、彼が行き着いたのが、瀬戸内海に浮かぶ小豆島でした。
尾崎放哉の酒癖は、飲んで暴力を振るうという体のものではなく、相手を執拗に詰問する、罵倒するという感じの酒乱でした。そしてこれは本人も認めていた「悪徳」でした。
「俳句仲間」のもつ親和性というべきものがあるのかも知れませんが、尾崎放哉にとっても、小豆島を探してくれたのは師でもある荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)で、島に受け入れてくれた井上一二も、井泉水が主宰する自由律俳句誌「層雲」の同人でした。自由律俳句とは、河東碧梧桐が初めて提唱した、「5・7・5の定型によらず、季語もなし」・・・といった感じの俳句のことです。
@ここまで来てしまって急な手紙を書いてゐる
これは、尾崎放哉が島についたころ書いた句です。そうとう変格な句ですよね。
さて、尾崎放哉には死に繋がる持病がありました。それは当時ガンより恐れられていた肺病(結核)です。島に来た際にはかなり病状が悪化していました。自分を養うにも、働く体力がない・・・そこで周囲の人びととか同人たちには、物品、お金の無心をしないわけにはいきませんでした。
庵も決まりました。西光寺の別庵・南郷庵(みなんごうあん)でした。住職の好意によるものでした。
神経質になっていた尾崎放哉は、一時期、彼ら支援者の善意を疑いますが、しばらくしてそれが自分の僻み(ひがみ)によるものであることに気付き、以降は彼らの善意を疑わなくなります。
こんな環境で、尾崎放哉は彼の代表作のような句をひねり出しています。
@咳をしても ひとり
@墓のうらに 廻る
@ なんと丸い月が出たよ 窓
特に、「咳」の句がスゴイですね。尾崎放哉は、親族とも縁を切った気でいて、自分が死んでも、親族に連絡することを拒みました。自分の周りには誰一人いない・・・という叫びたくなるほどの恐怖。それを、巧みに表現しています。もっとも、身の回りの世話をよくやってくれた、シゲさんというおばさんがいましたが。
島に着いた当初、食べるものといえば「小麦粉を水で練ったもの」と梅干・・・といった食生活をしていたので、体力は眼に見えて落ちていきます。肉、卵などの滋養のある食べ物も譲ってもらいますが、彼のからだは次第に、粥(かゆ)くらいしか食べられなくなり、下痢と強固な便秘に交互に悩まされるようになります。
四日前から便秘していたが、赤めしと汁粉を食べたので腹が強く張り、厠に這って行って力んでみても便は出ない。そのうちに、遂に腸が肛門の外に出てしまい、それを紙で押しもどそうとしても入らず、血が流れはじめた。かれは、下剤のしゃり塩を服用し、ふとんの上で突っ伏して呻きつづけた。冷汗が全身に流れ、ふとんをかたくつかんでいた。
しかも、喉頭結核になったのか、お粥さえ喉を通らなくなってしまいます・・・立ち上がることも出来ません。声もまともに出ません。彼は死にます。42歳の若さでした。馨は死を看取りに来てくれたそうです。大正15年のことでした。
現在、南郷庵には
@いれものがない 両手でうける
という井泉水の筆になる句碑が立っているそうです。
今日のひと言:吉村昭さんも、結核を患った経験があり、それを縁に感じて尾崎放哉の評伝を書く気になったそうです。症状が出たら、きついんでしょうね、結核。
関連過去ログ:放浪の俳人・種田山頭火
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20090804