虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

老子と「無為自然」

 *老子と「無為自然



  (以下、MIXI上の私のページに手を加えました。少し自信がない内容です。)
私は老荘思想が好きですが、老子荘子が好きだと言っている人には、実際原典を読んでいないことも多いように思います。「無為自然」という言葉は有名ですが、老子はひと言も「老子」のなかでこの言葉を使っていません。「無為」とは言い、「自然」とは言っても、「無為自然」という言葉を老子は使っていません。この言葉は後世の人が作り上げた造語か、と思います。この「無為自然」という言葉を使うと、なんとなく老子を解る気がするのでしょうね。


ところで「無為」というキーワードでMIXIの個人検索をすると悪い意味でこの言葉を使っている人が圧倒的に多いのに驚かされました。「なにもせず、非生産的」という自嘲の語感を感じとれます。よく随伴して出て来る言葉が「無為徒食」。ところで「老子」には「為無為」という言い回しもあり、これは積極的に良い意味で用いられます。この言葉についても検索すると2人ほど自己紹介文の中で使っている人がいて、このような人は「無為」の意味が解かっているように思います。「無為」は、必ずしも何もしない、という意味ではありません。自然農法家の福岡正信氏のところに弟子入りした人が「朝早くからたたき起こされ、ひがな一日働かされた」と書いてあるのを読んだころがあります。現代の老子と呼ばれる福岡さんにとって、「無為」とは「何もしない」という意味ではないようです。



 そう、「無為」を、なにも「何もしない」という意味に取る必要はありません。私は「為に(ためにするの)ではない」という意味で読むことが多いです。「何かのためにするのではない」ということで、「為無為」は「何かのために行動しないように、行動する」という意味になりますね。老子は、決して無為徒食の人ではないと考えます。
人間は、行動の動機を、なにか外部のものに求めることが多いですが、それをしないのが「無為」だと私には思われるのです。




(以下、MIXIの人たちとの質疑応答)




Q:何かに惑わされた結果、何らかの行動をするのではなく、ただ自らの理由と目的(あるとすれば、ですが)に従った行動を取る、と言う意味に解してよろしいでしょうか?
これはよっぽど内省を重ねないと…たどりつきませんね。

A:私の解釈のミソは、「無為」を「何もしないこと」、「為無為」を「何もしないことをする」と言ったような同語反復の意味に取るのではないことです。だから「無為」の「為」を「・・・のため(目的)」のように解釈します。
 また「無」という言葉も「・・・でない」「・・・がない」という解釈を取らず、「・・・を超える」という意味に取ります。だから「無為」とは「目的(の設定)も超える」というように取りますので、自ら設定した目的も超えたところに行動原理を置く、ということになるでしょうか。
 私の解釈をサポートしてくれるのが禅宗でいう「無分別」という言葉で、「あれがいい、これがいい」といった分別を超えるといったところに「無分別」の意味があると思います。普通にいう「あの人は無分別だから・・・」というマイナスの意味ではなく、プラスの意味でこの場合は使われています。
 なお、「なにも行動しない」=「瞑想をする」と考える人も多いでしょうが、私はこのようなオカルト的な解釈は取りません。私は特に瞑想に価値をおかない人です。
 ご質問に答えられたでしょうか?





Q:目的の設定は(何かに)なることを意味するので、何かになることの無意味性をみてとり、ただ(自分で)あるということあたりをさしてるのでは。ま〜目的が無ければ争いや悲しみは起きませんな。欲望も無いのだから。それは理ですね。「自分」とは何をさすのかが分かれ目になりますネ。

A:この日記を書いた本人がよく理解しているかどうかは不分明ですが、「目的が無い」行為というのは、案外やるのが難しいと思います。日常生活では「散歩する」ことがもっともそのラインに近い行為で、荘子の第1章はいみじくも「逍遥遊篇」になっています。逍遥遊(しょうようゆう)とはまさに散歩の意味ですね。
 もしかしたら、「目的を持つ存在」=「自分」と言ってもいいかも知れません。逆に「目的を持たない存在」=「散歩をするもの」・・・日常の合目的的行為を、散歩の意識でやれる人がいたとすれば、その人こそ「無為」を実践している人と言えるかも知れません。まとまりませんでしたが、今後の課題としておきます。おもしろいコメント、サンキュー。



Q:無為の反対語は人為です。また、「無」とは「気+火」という意味です。専門的には。・・・(中略)・・・無為自然の意味をよくかみしめるべきです。

A:これはなかなか鋭い指摘です。ただあなたは宗教学的な意味でこの対比を使用しているように思えます。私は宗教学より言語学を上位の学問としますので、「無為」に対しては「有為」を反対語に置くのがよいと思えます。また、あなたの対比の場合、「為」という言葉の意味について考察しておられません。ところで、老子が言っていない無為自然の出典はどんな本なのですか?

Q:どうでもいいじゃあありませんか。

A:(心中で)そんなんじゃあ、お話にならない。おひきとり願います。




まあ、「為」を「行動する」意味にとるのが一般的でしょう。たとえば植物の「単為生殖」という現象は「1人(単)」で「行動して(為)」子孫を残すといった意味ですからね。ただ、辞書的には「・・・ために」との意味もあるので、私の説も捨てないでくださいね。この辺が自信のないところなのです。
                 


今日のひと言:言語というものは恐ろしい力を秘めた存在だと思います。有名なところでは、「キリストを産んだマリアは処女だった」という記述、これは誤訳だったそうです。ただしくは「キリストを産んだマリアは娘だった」という記述で、誤訳の矛盾を取り繕うために、三位一体(トリニティー)という教理がひねくりだされたのです。この教理が後世に与えた影響は甚大です。「無為自然」も同じようになることを、私は危惧しているのです。



今日のひと言2:夕べ、ネットカフェに行って、コミック「美味しんぼ」第100巻(!!)を読んで見ましたが、「青森県をまるごと頂く」という内容で、百科事典風になっていました。これって、20年以上まえに農文協農山漁村文化協会)が出した、「都道府県別」の料理大全とおなじ観点なのではなかろうか、と思いました。二番煎じですね。


老子 (中公文庫)

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