「沈むアヒル」
*「沈むアヒル」
(私家版「エリートってなあに?――東大生の学習体験」より)
色々な講師を、「グループ水」も招きましたが、なかでも、槌田劭(つちだ・たかし)氏には格別の思いがあります。槌田氏は、父の代からの学者一家の出で、本人は京都大学理学部化学科を卒業後、アメリカに留学し、京都大学工学部で金属物理を教えていた俊才です。彼も学園闘争を教官として体験しましたが、理性の府としての大学が暴力と無秩序の場になったのが信じられず、また当時から広まりつつあった大量生産、大量消費の「使い捨て社会」に警鐘を鳴らすため、あっさりと京都大学助教授の地位を捨て、「使い捨て時代を考える会」という住民運動を立ち上げ、実際に農業を体験したり、廃品回収のリアカーを引いたりなどの実践を行った行動派の人です。(2003年時点では、私立の京都精華大学教授をなさっています。)理科系の人なのに、他人の考えていることを悟れるような、他心通の能力を持っているのか、と思えるほど人間洞察力の優れた人だと記憶しています。講座以降は再会を果たしていません、残念ですが。ここで、彼の著作「共生の時代」(樹心社)から、一節を引用します。

- 作者: 槌田劭
- 出版社/メーカー: 樹心社
- 発売日: 1985/09/01
- メディア: 単行本
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「沈むアヒル」 私は、合成洗剤・粉石けんの専門家ではありません。皆さんの方が内容に詳しいかも知れませんので、間違っている所や、説明不足の所があれば、教えて下さい。一緒に考えていきたいと思います。
合成洗剤といえば、忘れられない記録映画があります。その映画は、合成洗剤の威力をこういう形で表現していました。「水にアヒルが浮いている。その中に合成洗剤を入れる。するとアヒルは沈む」と。アヒルは、水の表面張力で羽毛の間にたっぷり空気をかかえて、それが浮袋になって水の上に浮いている。ところが合成洗剤を入れれば、水の性質が変わり、界面活性剤の力で、水は羽毛の間に入り込む。浮袋がなくなってしまうわけです。アヒルは浮いていられない。その時のアヒルの情景は、滑稽というか、アヒルにとっては、青天の霹靂ですから、自分は浮いて当然と思っているのに沈むのですから非常にあわてる。
「こんなすばらしい界面活性剤(合成洗剤)が我々の生活に使える」と映画はそれを映し出すのです。
私にはその場面が今でも忘れられません。「すばらしい」というより「アヒルがかわいそう」と思ったのです。私自身理科系を選んだ人間ですから、「かわいそう」という文学的表現より、「いい物質がみつかってよかった」と感じやすい特徴をもっているはずです。にもかかわらず「かわいそう」と思った。これは物の見方なわけですが、ある人には「かわいそう」と思うことが、他の人には「すばらしい」という見方ができる。その記録映画を作った人は、「すばらしい」としか見ていないわけですから。
物の見方の中で、ある一面的な物の見方があたりまえだと疑わないような思想が広がった時、世の中はどうなるでしょうか。私は、部分だけをみて全体をみなければ間違ってしまうと思います。実は、合成洗剤の問題は、そういう問題ではないかと思うのです。
合成洗剤は、アヒルの沈むことが「すばらしい」という線上で普及してきました。それに対して、私がずっと気になっているのは、沈むアヒルが「かわいそう」という思想・見方ですね。
沈むアヒルに私は、不吉な影を見た。沈むのは、アヒルの世界だけなのだろうか。そうではなくて、我々の文明そのものをかかえて今まさに沈もうとしているのではないかと、そのとき直感したのです。沈むアヒルに象徴されるのは我々自身である。近頃になってこれは私の確信にさえなりました。「沈むのは、アヒルだけではなく、私たちも共に沈んでいる」。(以下略)
少々長い引用になりましたが、理由があります。この文章を読んだ時、「槌田さんはなんと優しい人か」と思いました。読者の皆さんもそう思ったことでしょう。ところが、この文章は、それほど生易しいものではないのです。槌田氏は言っていました:「昔書いた文章を読むと、当時は思ってもいなかったことが読み取れることがある。時とともに自分も文章も成長するようだ。」この文章が最たるものです。ものごとには、必ず二つの側面があり、一つにのみこだわると、必ず足をすくわれる――これは実に深い真理で、私にとって「沈むアヒル」は長い間意識の底にあり、その後、中国哲学、特に老子と易経(えききょう)を読むようになってから、「沈むアヒル」の言っている事態が良くわかるようになりました。その意味で、この文章は、私にとって記念碑的存在なのです。「アヒルを沈められるほどハイポテンシャルな物質を開発したのは、素晴らしいことだ」という見方もあり、ということ。そして、どちらの見方も正しいし、また誤っている、ということです。現代の身近な事例を挙げれば、「喫煙」。今、「タバコは悪だ」という一面的な見方が広がっています。その目指す先は――「毒物」「ばい菌」を全て排除した社会ということになるでしょう。それはそれで結構ですが、その社会が再び「毒物」にさらされた時、どんなことが起こるでしょう?恐らく、その社会は崩壊するでしょう。「毒があるからタバコは価値がある」という見方も成り立ちますね。「沈むアヒル」の指し示す真理は、かくも深いのです。(以下略)
今日のひと言:文科系の感覚だけでは世界を見誤る危険性があります。かならず理科系
の感覚をも身につけるべきでしょう。槌田氏はその真理を教えてくれる
のです。
今日のオオバカ:メルマガ「軍事情報」(VOL310:07.8.27)によると、中国の軍人がアメリカの軍人に「太平洋を東西2つに割って、それぞれ支配しよう」と提案したとあります。アメリカ側は即座に拒否したそうですが、日本海でさえ支配できない中国がどうして太平洋の西半分を支配できるのでしょうか。オオバカの証ですね。アメリカが太平洋の覇権を握ったのは、日本との烈しい闘争の結果、血で購った海域なのだから、「じゃあ、2分割しよう」というわけがないのです。