虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

二桁の掛け算九九は必要か

  *二桁の掛け算九九は必要か
  (インターミッションその1)
浅田真央がトリプル・アクセルに失敗して転倒した。」というようなニュースを耳にすると、私は以下のように考えます。「女と男の運動能力の違いはどのくらいか?」と。男性には4回転を苦もなくこなせる選手は多いので、女が3.5、男が4として割り算をしてみることにします。
   3.5/4
 これは暗算でだいたい80%から90%であることが解ります。
実際計算すると87.5%となり、女は男の運動能力の10%引き、男は女の10%増しであることが解ります。まあ、だいたい90%であることが必要充分で、87.5%というような3桁の精度は必要ないと思われます。
 さて、インドなど、いくつかの国では、小学生に二桁の掛け算九九を教えています。一桁の九九なら9*9=81通り覚えればいいのですが二桁なら99*99=9801通り覚えなければなりません。121倍の労力が必要です。その労力を別のことに使えばいいのに、と思えます。掛け算の計算は、一桁の九九を覚えていればこなせます。二桁の掛け算九九の暗記は不要だと思います。
 大数学者ガウスは、自分自身二桁の九九を暗記するほどの計算上手でしたが、複雑な計算は、計算に特異な才能を持つ男を利用していたそうです。現代の我々には計算機という利器があるので、ガウスより恵まれています。
 また、金銭の収支計算ならともかく、理数系の計算では、通常3桁の精度で充分な場合が多く、さきほどの99*99=9801のような4桁にもなる数字は、有効数字という意味でも無意味なのです。一桁精度が余計なのです。
 問題は、計算能力の多寡ではなく、いかに問題設定ができるかということだと考えます。計算自体は計算機に任せればいい時代、求められるのは問題設定能力だと思います。
まあ、それでも、一桁の九九は、「読み、書き、ソロバン」といった意味で暗記が必須なのは言を俟ちませんけどね。


今日のひと言:かつて中学校で教えられる教材に「計算尺」というものがありました。掛け算・割り算をはじめとする理数系の計算に万能の力を発揮する「魔法の棒」でした。そしてこの計算尺を使うにあたっては、位取りの暗算が必要で、概算の能力が無理なく身についたものです。アナログ型計算機(対数を応用する)である計算尺は、デジタル型の計算機に駆逐された感じですが、今でも学ぶ価値が大きいと思います。なお、私は計算尺みたいなひとで、計算尺と同じく足し算・引き算が苦手で、6+9という計算を、いちいち考えないと計算できません!!これで数学科を目指していたのだからお笑いです。
 インドといえば、藤原正彦御茶ノ水女子大学教授がNHKの人間講座でやった「天才の栄光と挫折」でラマヌジャンというインド人数学者を取り上げていました。ラマヌジャンは「公式」を作り出す能力がずば抜けていましたが、「証明」の意味が理解できず、イギリス人数学者のリトルウッドやハーディー(いずれもケンブリッジ大学教授)などが一生懸命証明を付けたといいます。彼は「神が与えてくれる」とその発想の機微を語っていましたが、私がラマヌジャンを評価するに、1流の数学者とは言えません。あくまで彼がやったのは、「計算公式の発明」です。言ってみれば便利な道具を量産したわけです。ただ、その道具は、微分積分のような大道具ではなく、あくまで小道具であると思われます。ラマヌジャンがやったのは、「計算」です。おなじく「天才の栄光と挫折」にとり上げられたフランスのガロアは、その「群論」によって、「計算することの意味」を問いました。このことによって、2人の業績の質的差異は巨大なものになります。数学の真髄は道具立てのみにあるのではなく、それを使いこなすことに、更に言えば使いこなすことではなく、その道具の適用限界を知ることにあるのです。高校数学では、往々にして三角関数とか微分積分とかの公式の暗記がはばを利かせますが、私は数学学習上、邪道だと思います。覚えることが多すぎ、それらの公式を使えば考えることなく問題が解けてしまうからです。本当の数学とは、考える営為であるはずです。ただ、工学などに応用することが第一義なら、その限りではなく、諸公式の暗記が有意義であることは当然です。