*DO NOTHING 都市工学の核心 その2
森村助教授との出会い
森村道美(みちよし)助教授(当時、のちに教授)も、はんこを貰いに伺った一人です。都市計画に関しては、その緻密なケース・スタディーにおいて並ぶ者のない方です。森村さんもはんこは下さりませんでしたが、「森下君、そんなことしてて大丈夫なのかい?」と心配してくださりました。そしてそこで面白い会話をしました。 森村さん:「中西さん(中西準子助手)が、長野県駒ヶ根市で、下水道の都市計画をしているよね。私も下水道における都市計画には興味があるので、計画書を読ませてもらったけど、彼女の計画にはDO NOTHING(ドゥー・ナッシング、何もしないこと、無為とでも訳せましょうか)がないね。」その一言を聞いて、私はなにか悟るところがあり、「ドゥー・ナッシングとはそういう意味だったのですか。授業で教わったことと大きく意味が違います。確かに、中西さんの下水道計画にはDO NOTHINGがない。」と答えました。まるで禅問答なので、次に以上の会話の解説をしようと思います。
DO NOTHIGの意味するもの
そもそも、DO NOTHINGと言う言葉は、都市計画の授業には必ず登場するものの、だれもがあっさり通りすぎてしまう用語です。これから都市関連施設の開発しようとする者が、「何もしない」訳がないのです。私も、この用語を授業で聞いた時、「詰まらぬ概念だな」、と通りすぎていました。ところが、このDO NOTHINGこそ、都市工学の、ひいては全学問の核心なのです。
私は、専門が決まってから、生まれて初めて環境問題に関心を持ち、中西準子女史著「都市の再生と下水道」に触発されましたが、その分野ではもっと過激な宇井純氏の自主講座に出入りしていたのです。その頃、中西女史の「駒ヶ根市下水道計画」というプランが出てきた訳です。ところで、水俣病の告発で名を揚げた宇井氏は、缶切りの使い方を知りませんでした。中西女史は高層マンションに住み、都会生活をエンジョイしていました。いずれも、都市民としての視点しか持ち合わせていません。そんな人が下水道計画を立てたら、最悪とまでは言わないまでも、詰まらぬもの、中途半端なものしか出来ないでしょう。実際その通りで、私にとっては、中西女史の計画は食い足りぬものでした。そう思っている時の、森村助教授との会話は、一瞬にしてことの真相を教えてくれたのです。「踏みとどまることを知らない計画は、計画ではない」と言うことです。下水道建設を唯一の選択肢とする点で、彼女の計画は、杜撰なのです。森村助教授は、計画書だけでそれを見抜いたのです。
ちょっと例を変えて――冬山に登山しているとき、吹雪に遭遇した場合、進むか引き返すかの選択は生死を分けます。中西女史の下水道計画は、まさにこれなのです――進むことしか知らない。その状況は、原発建設、ダム建設、河口堰建設にも同じ様にあらわれます。どの場合も、都市民の生活様式に疑問を抱かずに進められる点で共通しています。そして、引き返すことを知りません。もう一つ例を挙げると、振り子――これが振動している時、右にも左にも揺れますが、かならず真中の点を通ります。振動を止めれば、その点に振り子は止まります。所謂「不動の一点」です。その点こそがDO NOTHINGなのです。この点のことを常に心に留めておくことが計画をする者の要諦なのです。これはすべての学問にも言えることです。DO NOTHING(無為)についてどう考えるか――これは全ての学研に必須の課題なのです。
正規の授業では私にとって何の意味も持たなかった「DO NOTHING」は、自らの体験および森村助教授からの示唆によって、新しい意味を与えられました。この言葉の本当の意味が理解できただけでも、都市工学科に進んだ、ひいては大学に行った甲斐があったと言うものです。そして、この「悟り」を得られたのは、授業でではなく、森村助教授との雑談の中ででした。私に理解出来る準備があり、森村助教授が適切な解説をして下さったからなのです。白紙の状態で授業に出て、なんとなくノートを取る学生、なにも研鑚を積まずに講義をする教授。こんな授業は有害なだけです。そしてそれは残念ながら、現在の大学教育にありがちな光景です。森村助教授がいみじくも言っていました:「今の学生は、授業に出すぎる。もっと遊ぶべきだね。」
今日のひと言:か、かわいい片山さつき。
*彦星・Altair その孤独
本来のパートナーは織女(Vega)
しかし 彼女とは 破綻
ここに 乙姫がいる
でも浦島太郎と結婚している
乙姫を大好きだけど――
彦星は ひとり 輝く
(Altair = Antares )
2005.12.23 19:23
BY REI MORISHITA