(ぜんぶで6話、私が1984年から1985年に渡って某ミニコミ誌に書いた記事を載せます。なにぶん古いですが、今でも一定の価値を持っていると自認しています。私の文章修行にあたる記事です。第4話。)
「兄貴が、食―――入る方のことをやっているから、こっちは出る方の事(大小便)を―――と思い、下水道をやっているんだ。」―――友人のS君が、私に話してくれました。この明快さに、私はタメ息をつきました。「うーん、何ごとも後始末が肝腎なんだよな。」―――その頃は、彼も私も、宇井純氏の下水道技術の研究をする「水処理グループ」にいました。つまり、下水を煮たり焼いたりする単調な実験を一日中やっていたわけです。
さて、その「下水道」は、台所や便所のホースから、下水管、処理場を経て、海にまで至る技術です。その核となる処理場で、何をするかというと、「水すまし」です。例えてみれば、水にみそ(・・)を入れて、かきまわすことです。しばらく置いておくと、上ずみが薄くなって、底に、みそのかたまりが沈みます。処理場は、これによく似ています。水中の汚濁物は、「栄養」であり、そこに、土を入れてかきまわしていると、土中の微生物が、栄養を食べて成長します。このとき、彼らの呼吸を助けるために、空気を大量に送り込みます。次に、空気を送らずに放置すれば、微生物(「活性汚泥」と言います)は水より重いから沈殿するので、上ズミの水を放流する、というわけです。生きものである活性汚泥は、調子の良いとき、本当に赤みそ色になるので、愛嬌があります。ただ、何でも食うほど大食ではなく、除去できないものも結構あります。
では、水を抜いたあとの活性汚泥はどうするか―――土から借りたものは、土に返す―――これが鉄則でしょうが、そうもいかないのです。現在の下水道は、家庭排水だけでなく、工場排水も受け入れ易くされており、後者の中には重金属その他の有害物が混入しているとしたら―――それを多量に含んだ活性汚泥は、下水道の弱点です。「煮ても焼いても食えない。」汚泥を焼却すれば、煙突の周辺の地域は、重金属汚染を受けます。農地に返すわけにもいかない。大抵は、業者に委託され、埋め立て、あるいは山林、海洋投棄される運びです。(筆者注:東日本大震災で発生した放射性物質を含む汚泥灰は、それさえできませんが。)ただし、問題は、工場だけではありません。
このような不確かな土台の上に巨大なピラミッドが建てられようとしています。一日に百万人レベル単位の下水を処理する「流域下水道」については、各地で建設反対の訴訟もおこっていて、本当は、何冊もの本が書けるのでしょうが、ここでは多くを触れません。(詳しくは、中西準子著「都市の再生と下水道」(日本評論社)をご覧下さい。矛盾だらけの下水道のついての、好著です。(東京なら「プラサード書店」(西荻窪)や「木風舎」(阿佐ヶ谷)にもありますよ。)
実は、私がこだわりたいのは、もっとささやかなことです。私は、これまで、このシリーズで、「汚れ」という言葉を漠然と使ってきましたが、これは一体なんなのでしょうか。少々突飛な言い方をさせてもらえば、それは、「水洗トイレ」ではないでしょうか。「下水道」の恩恵と表裏の関係にあるもの。つまり、「汚いもの」、役に立たないもの、異質なものを、とにかく遠くへ、目に見えないところへやってしまおう。そうすれば、あとはどうにかなるだろう―――という考え方が土台にあると思うからです。この考え方の前半は、「自分」がどこかへ消し飛んだ、傲慢さ。後半は、お荷物を、何か他のものに押し付ける無責任さ。―――つまり、「水洗トイレ」は、傲慢と無責任とでできている!―――とは言い過ぎでしょうか。その結末は、「どうにもならん」ということになるのでしょうか。
「土壌浄化法」という下水道技術があります。これは、いたずらに巨大化する下水道への反鐘とされる、一戸一戸で作れる技術です。従来の、「水を水として処理していた」方式ではなく、水を一たん地下に導いて、土壌中の微生物、植物、ミミズなどの強力な力で、浄化しようとするものです。初めから土の力によるわけですから、実際にかなり水は浄化されるようです。しかし、何でも流して良い訳ではありません。例えば、合成洗剤。土が死にます。また、大小便。このシリーズの一回目で書いたように、土は割と包容力がなく、タンパク質が分解した硝酸は、地下水汚染を起こします。この大小便の問題は、土壌浄化法の弱点です。(下水道全体の、でもありますが。)その点注意して、雑廃水のみ、“のべつ”ではなく、間欠的に流すのなら、有効だと思います。
しかし、“水を土中に導く”発想が、万全であるとは言えません。確かに、臭気を押えるのに、土ほど便利なものもありませんが、それこそ、正に「水洗トイレ」ではないですか?それなら、まだ水を散水するほうが素直だと思うし、かつての農家のように、汚水も流さず、身近に留めておいて、田畑の肥料にする発想に親しさを感じるのです。もう一つは、一たび固定した装置を作ると、その能力を過信して、いくらでも「汚れ」を流すようになりがちだということです。
ここで再び、「下水道」あるいは「水処理」とは何であるのか、考えなければなりません。下水道技術は、水と土をつなげてこそ、完結したものになります。それは、良い肥料。そして、それの恵みで安心して食べられる野菜が育てられるか、ということだと思うのです。しかし、現在の、のけものとしてしか扱われていない「汚れ」が、分析すれば、肥料として使える、という結果になるのでしょうか?―――思うに、「捨てること」と「生かすこと」の間には、無限の隔たりがあると。
* * * * *
かく言う私の現状です。今のアパートを選ぶとき、考えていたことの一つに「水洗トイレ」でないこと、がありました。実際は、それはかなわず、しっかりと中央線小金井市の水洗トイレ付きアパートです。他の要因もあったと言い逃れはできても、わたしはしっかり「下水道」の恩恵をうけています。「俺は、何か作り出しているのか?」―――「・・・・・。」せいぜい、台所排水は流さず貯めて、あとで散水すること。できるところでは極力、立ちションをすること。幸い、近くに空き地はあるので、野菜カスは暇を見て埋めに行っている、くらいのこと。何ともささやかな抵抗。しかも、近くには、おいしい湧水がある、と同時に、息も絶え絶えの「野川」が流れている。私には何が出来るのか。
ここ一年弱、隣のH市の八百屋「P」でお世話になってます。今は週2,3回、アルバイトの店番で、色々と楽しいのですが、今でも気になることがあります。それは、黄色くなった葉っぱや、かびくさくなったトマトの行く先なのです。もちろん、それは、こちらの扱い方とか、お客さんの理解によって、捨てずに済むし、もし余れば、こちらが食べられるのですから、これはチマタとは大ちがいだと思います。しかし―――大根を店に並べるとき、霜にやられた葉を摘み取って、何気なく袋に押し込んで、ゴミの回収スポットに持っていく自分は―――?もしかしたら、これこそ、大変なことなのかもしれないと思うのです。
(注:私の師の中西準子さんが、この「土壌浄化法」を実際に設置業者を呼んで設置して水質分析を試したところ、浄水効果はない、という結果が出たことがあります。)
関連過去ログ:コンポスト・トイレと水洗トイレ
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20080804
NHK朝のテレビ小説 企画書「ヴァキューム」
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20051226
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