虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

聖と俗・・・「凍河」(五木寛之)と「伊勢物語」に見る男女関係

 1970年代五木寛之によって書かれ、NHK銀河テレビ小説になったり、映画化されたりされた「凍河:とうが」はユニークな作品です。舞台は横浜近郊の精神科病院。新任の精神科医竜野ツトムは、日本に2台しかないバイク・BSAを愛用している、一風変わった精神科医


 その彼が惹かれたのは、十分退院できる状態であるにもかかわらず、この病院にいることを願う阿里葉子(あり・ようこ)。彼女に恋愛感情を持つにいたった竜野は、彼女が外出届けを出したとき落ち合い、ホテルで男女関係を結びます。この辺の記述は、激しい性描写はなく、淡々と書かれています。


 阿里葉子が退院したくない理由としては、この病院で院長によって吹き込まれた「無抵抗」主義でいたところ、ある男性に暴行され、病院に舞い戻ってきたというお話でした。


 この精神科病院は、むしろ良心的に過ぎて(患者に余り薬を処方しないなど)、経営的に苦しく、近郊への移転がなされないうちに、一回全患者を解放するという措置に踏み切ります。竜野が「きらいではない」阿里葉子は、竜野と2人、BSAに乗って旅立つという結末を迎えます。ひと言付け加えるなら、院長も阿里葉子と関係をもっていました。


  注意してほしいのは、阿里葉子の出自はいわゆる「被差別部落民」の出で、その上に精神病患者であるという2重の差別の中におり、「俗中の俗」というあり方を地で行っています。

 
 精神科医が患者とSEXするという設定自体、当時だいぶん話題になりました。


病院長の娘の「ナツキ」は彼らに送別の歌を歌います:

「凍った河の下には確かに水が流れている」・・・と言った内容の。


「ナツキ」も父と阿里葉子の関係に悩んで、自暴自棄になった女の子です。

TVドラマ化、映画化もされました。TV版には、林隆三、桂木梨江、映画版には中村雅俊五十嵐淳子がそれぞれ共演し、

映画版のカップルは、実際に結婚しました。



 さてここに、もうひとつの類型があります。それは、「伊勢物語」に出てくる「むかしおとこ::モデルは在原業平ともいう」と伊勢神宮斎宮(いつきのみや/さいぐう)の情事です。斎宮とは、皇族のなかから選ばれる内親王(皇女)が、一定期間伊勢の神のものになり、男性との性交渉はかたく禁じられていました。その壁を乗り越えてきたのは、斎宮自身であり、「むかしおとこ」と同衾(どうきん:SEX)したあと、翌朝次のような情熱的な歌をおとこに渡します:


 君や来し我や行きけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか


(昨晩のこと、あなたがいらっしゃったのでしょうか、私が伺ったのでしょうか、よく解りません。夢の中のことなのか、事実なのか、寝ていたときのことでしょうか、起きていたのでしょうか?)
          ・・・伊勢物語69段・・・


これほど熱烈に慕われるなんて、「むかしおとこ」はうらやましい。ここには、「聖なるもの」=「斎宮」との、禁じられた愛が語られています。伊勢物語の題名自体、このエピソードから採られているようです。でも、その事実が権力者に知れたら、「むかしおとこ」も斎宮もただでは済みますまい。それを乗り越えることで次の次元に行けるかと。



今日のひと言:聖なるもの、俗なるもの、いずれにも一種の猥雑感があり、また神々しいものもあるのですね。



凍河 (五木寛之の恋愛小説)

凍河 (五木寛之の恋愛小説)

伊勢物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

伊勢物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)