「平塚らいてう」と彼女を巡る女性たち
平塚らいてう(雷鳥:らいちょう)は、明治時代から昭和時代に渡って活躍した、フェミニズムの先駆者です。1886−1971 。
もっとも有名なマニフェストは、
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」という、雑誌「青鞜:せいとう」の創刊号に掲載したものであり、見聞きした人もいるかも知れません。もっとも、このコトバ、創刊に合わせて、急ごしらえで用意したコトバだそうです。
注:(青踏)明治44年(1911年)9月号にて当時26歳だった平塚らいてうが創刊した、純粋に「女性の、女性による、女性のため」の文芸誌。当時の寄稿者も25歳前後のじつにみずみずしい印象を受ける女性たちである。
誌名の由来は、欧州の知的女性がはいていた「青い・ストッキング」に由来する。
1913年には文部省の理想とする「良妻賢母」のイメージと異なると言う理由で発禁処分を受ける。
平塚らいてうが降りたあとは伊藤野枝が編集長を続けたが、大正5年(1916年)2月号にて、休刊した。
平塚らいてうは、その青春時代、まだ平塚明(平塚明子)(「はる」ないし「はるこ」)と名乗っていた際、夏目漱石の弟子の森田草平と恋に落ち、なぜか那須・塩原で心中を謀り、未遂に終わります。この事件はマスコミに興味半分で語られ、また、母校の日本女子大学からは卒業者名簿から削られるという処分を受けます。(その処分が解除になったのは、平成になってからだとのこと。)
その後、らいてうはスウェーデンのフェミニストであるエレン・ケイの思想に大きな影響を受けます。
また、彼女は、1911年の「青鞜」立ち上げ後、翌年の1912年に、無名の画家奥村博史と知り合い、事実婚に入ります。(産まれたこどもは男女1名づつ、らいてうは自分の戸籍に入れます。私生児扱いにしたのですね。ただ、太平洋戦争まぎわに奥村の戸籍に移しますが。)奥村は、「らいてうのナルシシズムの盾となり鏡となって、彼女の世界の一部を完結する存在だった」(←「平塚らいてう・・・近代と神秘」より)ちょうど、小柳ルミ子と大澄賢也の関係のようですね。女性主導の男女関係。
さて、ここからが本題。三人の女性とのお話が面白いのです。
その1。与謝野晶子とのやり取り。与謝野晶子の主張した、「結婚しようという男女は、かならずそれに対応できる経済力を持つべきであって、そうでない男女は結婚してはならないのである」という論に噛み付き、「社会的な保障が家族には必要である」と言っています。現代の言葉にすれば、与謝野晶子が新自由主義という立場なのに対し、らいてうは共産主義、あるいはケインズ経済学のような立場を取っています。(母性保護論争)
(でも、以上2人の議論は、裕福な家庭を持つ両者だから出来た応酬に思えます。)
その2。市川房枝。市川は「新婦人協会」でらいてうと組みましたが、らいてうは、単なる実務家であると思っていた市川が、案外論客であったことに驚き、喧嘩別れしました。
その3。高群逸枝(たかむれ・いつえ) 招婿婚(しょうせいこん:男が女の家に夜這いをかけて、その結果生まれた子は、女の家が育てる結婚形態。)の研究で名高い高群の場合、らいてうは、高群を素晴らしい後輩と見なしています。らいてうも年を取ったのですね。
参考文献:平塚らいてう――近代と神秘:井手文子(新潮選書)
むしろ女人の性を礼拝せよ(平塚らいてう新性道徳論集)(人文書院)
それから、もう一冊、自伝も借りてきたのですが、自己美化の感があるので、ちょっとばかり読んで図書館に返しました。また、井手さんの本は、らいてうを相対化しすぎていて、なんだか「らいてう」への批判書のように思えました。
今日のひと言:婦人、婦人といいますが、「婦」という字は、「女+ほうき」という意味の漢字です。婦人解放論者は、まず、この漢字を改めなければなりますまい。
なお、かつての友人で、招婿婚は男女どっちにとってもいい制度だと言っている者がいましたが、本人は、夫のある女性と性交渉し、子供を作っちまいまして、離婚されたその母子を受け入れずにいて、「いつか育児の本を書くんだ」とのたまっていました。誰が読むか、そんな本。このような男を、鬼畜と言うのです。
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参考過去ログ
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20080320
(老子問答その4)