古代中国特集 その3
ここで古代中国とは、春秋戦国時代から唐代までを指します。
唐の時代の禅の巨人たちは漢民族による中国文明が生み出した最後の光芒であると、私には思われます。今回のブログは「禅 現代に生きるもの:紀野一義:NHKブックス」に拠ります。
百丈懐海(ひゃくじょう・えかい:720−814)という名僧がいます。その師は苛烈で知られる馬祖道一。この馬祖という人は問答で負けを認めた人へでさえ、罵声を浴びせかける曲者だったので、ちょっと弟子は育ちそうにはありません。その馬祖のもとで大成したのが百丈です。
ある時、馬祖と百丈がいっしょにいたのですが
馬祖:「野がもはどこへ飛んでいく?」
百丈:「あちらに・・・あ痛あ!!・・・(馬祖は百丈の鼻をひねりあげる)」
馬祖:「どこにも飛んでいかないだろう」
百丈:「!!」
これで百丈は悟ったそうです。外界の諸事象はあくまで心作用のいたずらであり、「あ痛あ!!」とあげた百丈の叫びこそ彼そのものだということです。その後も馬祖によって強烈な「根性注入」があり、押しも押されもしない大宗祖に百丈はなりました。馬祖の弟子としては百丈だけだったでしょう、大成したのは。
百丈には面白いエピソードが多いです。
ある弟子:「ありがたいとはどうゆうことですか?」
百丈:「独座大雄峰(おれがここにどっしり構えていることだ)」
弟子:(意味もわからぬまま)礼をする (ここに弟子の傲慢さが見て取れる)
百丈:間髪をいれずに弟子の頬を打つ
・・・まことに百丈の面目躍如としていて痛快である。「おれがここに居る」どんなときにでもそう言えたら、人生はどんなにすばらしいか。ことに「独座」がいい。この独座は「おれひとりが」という独座ではない。百丈のまわりには数百人の弟子がいたが、その弟子も百丈山も山も川も一切合財ひっくるめてこの広い天地に百丈に対立しているものはひとつもない。天地と百丈とひとつ、そして、ついには仏ひとつという、百丈古仏独座独存の世界がこのひと言に叩きこまれている。(「禅 現代に生きるもの P127」)
百丈は立派な弟子を複数育てています。黄檗(おうばく)希運(?−850頃)、潙山(いざん)霊祐(771−853)が代表で、いずれも傑僧です。
今日のひと言:松坂慶子 ♪私は愛の 水中カー―
♪私は愛の 霊柩車――
どちらにしても命はないな。