潙山という男(仏教シリーズ その3)

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- 作者: 柴田書店
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この男は、鋭利な刃物だ。人の行為の状況とその精神状態の隅々まで一瞥して、ひと言、的確な言葉を「フッと洩らす。」そのひと言によって人は自分の行為の全体像が見渡させられて、忸怩(じくじ)たる思いになる。言葉を武器にした大将軍といったところか。彼は禅問答において、決して警策、警棒のたぐいは用いない。
潙山霊佑(いざん・れいゆう)、唐の時代の禅僧で、大巨匠・百丈懐海の秘蔵っ子だ。潙山が入門した折、百丈は一目見て、潙山の入室を許した。←ちょっと、待ったぁ!!それって大変なことで、「今すぐにでも印可を与えられる状態に潙山があったことを意味する。
そんなあるとき、囲炉裏を指差した百丈、潙山に「火はあるか」と訊ねた。とおり一遍見渡した潙山が「火はない」と応えると、百丈は全身全霊をかけて「火種を探し出し」、「これは火ではないのか」と言った。これで潙山は悟った。「見ているようで、俺はなんにも見ていなかった」と知るのである。
そんなわけで、潙山の分析能力は群を抜いている。さらにそれに輪をかけて、「言葉による暴力」の第一人者でもある。彼にかかると、人は丸裸にされ、拷問を受ける。このスタイルは、なまじ「通常の暴力」を使う人より強烈な印象を相手に与えるのだ。
こんな話がある:石霜という坊主が、米を振り分けていた。潙山いわく「こらこら、施主の施してくれた大事な米を振り落すでない」石霜いわく「振り落してはいません」潙山:「ではこの地面に落ちている米はなんなのだ」と一粒拾う。石霜は言葉がない。潙山:「おまえ、この一粒が千倍、万倍にもなることを忘れるな」と大笑いして帰っていった。そして夕べの講話で、禅僧全員に向かって「大衆(修行僧諸君)よ、米に虫がついたぞ」と公言した。さすがの石霜にもこれは応え、以後の修行はトントン拍子に進んだという。
この話を紹介している紀野一義氏によると(「禅――現代に生きるもの」:NHKブックス)、潙山は貴族が持つような研ぎへりして華奢だが、恐ろしいほどの切れ味を持っている刃物のようだとしている。まるで「カミソリ」のような男だ。兄弟弟子の黄檗希運が荒っぽい「ナタ」のような禅風であったのと対照的だ。そしてこの2人は、いずれも百丈自慢の双璧である。
そこで思うのだが、1師匠が1人の弟子のみに印可をあたえる「一子相伝」の世界かと思いきや、それだけの(印可を受けるだけの)素質があれば、何人にだって印可を与えてもいいことになる。実際、百丈はそれを実践した。ここであるマンガを思いだす・・・ボクシング漫画・「青の戦士」(狩撫麻礼・谷口ジロー)に出て来る「奴らは全てのラスタマンを殺せはしない」というフレーズである。1子相伝では、その1人が殺させれば、禅の命脈が絶たれる。複数の弟子に印可を与えておけば、だれかは生き残るであろう。なお百丈については以下をごらんください。
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20060505
今日のひと言:フィジカルな暴力よりメンタルな暴力のほうが、よほど応えるのですね。