生命保険の論理:破綻するとしか思えぬが。(随想録―57)
私の亡父は、生命保険が好きで、本人と私の弟に、生命保険を掛けていた。(私には掛けていなかった。)中堅企業の工場長ということで、収入も多かったが、「もしも」の時への備えとして、生命保険に執着したのであろう。
ところで、生命保険とは、何なのだろう。平たく言えば、「生命(体)」を「金銭」と交換する金融商品なのだろう。命を金銭に変えるというのは、「(生命)保険殺人」の温床になるのは、周知の通りだ。
そして、父が認知症になり、見境いなく、スナック(ぞっこんになっていたママに貢いでいたのだ)通いの資金元としてサラ金に手をだすに及び、私は父の金銭管理に動いた。当面必要なお金を捻出するため、私は、父の保険を解約することにした。
そこで「日本最王手の」生命保険会社の職員を自宅に呼びつけたのだが、対応の悪さを私が指摘すると「そんなことはないと思いますよう」と答えた。「バカか、お前は。問題があるから呼んだのだろうが。帰れ!」と私は自宅から追い出した。このような会社員にあらざる対応を何例か見て、この日本最王手の生命保険会社は、そのうち破綻するだろうと思った。
この会社以外の会社も、経営の実態はどんなものか。そもそも「人は必ず死ぬ。」これは100%だ。生命保険会社は、その死についても、「確率」で処理しようとする。何万人のうち、何%の、人が死ぬ確率を計算し、掛け金と支払い額を計算する。それでうまくいくということだが、損害保険では、たしかに「確率」で計算するのは、ある意味意に叶っている。東日本大震災のような大災害は、「被保険者が」存命中は起こらないかも知れないから。
でも、そもそも、「致死率100%」の人間に、「確率」は適用できるのか、していいのか。被保険者が、なにかの事由で大量に死ぬ事態も考えられる。そのとき、生命保険会社はどうするのだろう。ここで私はアメリカ合衆国を席巻した「サブプライムローン問題」を連想する。アメリカに住宅バブルをもたらした「サブプライム」も、確率計算を、有能な数学者たちも動員して綿密に行った。でも、確率的ではない(起こるべきして起こる)ローン破綻が続出し、制度自体が崩壊した。このような確率信仰の破綻は、生命保険会社にも適用できそうだ。
(2022.10.19)
今日の8句
枯れた百合
すくっと立つや
美しい
(2020.10.27)
日日草
枯れる直前
力込め
(2022.10.27)
ユンボには
負けていられぬ
草が生え
(2022.10.28)
木なるゆえ
草ほど再生
出来ぬクコ
クコ、がんばれ!ユンボに負けるな!
(2022.10.28)
二番穂の
金色光る
実りかな
(2022.10.28)
クローバー
霜掛かりても
元気なり
(2022.10.28)
長かった
花期の終わりて
泰然と
キョウチクトウ(猛毒)の大木。
(2022.10.29)
石仏の
花穂一本
握りしめ
(2022.10.29)