虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

向田邦子と橋田壽賀子

 向田邦子橋田壽賀子は、日本を代表する女流脚本家の2大巨頭です。向田邦子は1929年生まれ、橋田壽賀子は1925年生まれだから、ほぼ同世代の2人です。向田邦子は80年代はじめ、台湾で飛行機事故に遭い、他界しましたが、今でも彼女の脚本は取り上げられます。後世への影響力は甚大です。一方、橋田壽賀子は今も存命中で、「渡る世間は鬼ばかり」を初め、活躍中です。弟子筋にあたる脚本家も多く、内館牧子北川悦吏子大石静など、今のTV界をリードする人間人脈です。
 そこで、向田邦子の「阿修羅のごとく」、橋田壽賀子の「渡る世間は鬼ばかり」を比較して、両者の特徴をあぶりだしましょう。「阿修羅のごとく」は1979年の正月にNHKで放送された番組で2話。(第1話:女正月、第2話:三度豆)仲むつまじい老夫婦(佐分利信、大路三千緒)には別居する4人の娘がおり、長女(加藤治子)はお花の師匠で未亡人だが不倫中。次女(八千草薫)は2児に恵まれた専業主婦だが、夫(緒方拳)が不倫をしているのではないか、と疑っている。3女(いしだあゆみ)は潔癖症でいまだ独身。4女(吹雪ジュン)は奔放で、ウェートレスをしながらボクサーの卵と同棲中。あるとき、3女は父(佐分利信)が不倫をしていることを嗅ぎ付け、4姉妹集まって相談し、この事実を母(大路三千緒)には知られまい、と決めるが、そんなある日、新聞の投書欄に、「夫の不倫で悩んでいる」という匿名の投書が掲載される。この投書では3人姉妹であるという状況設定になってはいましたが、4姉妹はお互い、誰がこの投書をしたかで疑心暗鬼になり、お互い腹の探りあいをする・・・といった筋です。この心理状態を「阿修羅」が暗示しています。トルコの軍楽「メフテル」が効果音として使われ、独特な雰囲気をかもし出しています。この曲は「ジェッデイン・デデン」というそうです。(←Wikipedia
 「阿修羅のごとく」の場合、老夫婦とその4人の娘の人間関係の中で、3件もの不倫が登場します。すると極めてドロドロした劇になるような予感を持ったのですが、案外サバサバしていて、鑑賞後もむしろ爽やかな印象が残りました。これは向田邦子の手腕でしょうね。もし同じ設定で、橋田壽賀子が脚本を書いたら、はなはだしく罵り合う修羅場が現出され、見られたものではないのではないでしょうか。それより、橋田自身、この脚本の仕事を受けないでしょう。彼女は不倫の話を意識的に避けている節があるからです。←これについては  http://d.hatena.ne.jp/iirei/20061207  を参照してください。


 向田の脚本では、小道具、ないしは行為によって登場人物の意志が視聴者に伝えられることが多いです、例えば老母(大路三千緒)がオモチャを障子に投げつけ破り、それを知らん振りして補修しておいたというエピソードが出てきますが、これだけの事実が、実は4姉妹が父の不倫を母に知らせまいと画策していたのが実は徒労で、母は既にいち早く気づいていたことを明確に示すのです。一方、橋田の場合、意志は言葉によって伝えられるということになることが多いです。「渡る世間は鬼ばかり」でも、赤木春恵えなりかずき泉ピン子をはじめ、多弁な登場人物としてセリフを読まされることが多いのです。言葉の力に大いに頼っているのが橋田壽賀子、語らずに伝える工夫をするのが向田邦子であると言えましょうか。なお、下積み時代の苦い体験からか、橋田壽賀子は台本のセリフの変更とか役者によるアドリブを禁止しているそうで(Wikipedia)、役者にとってはキツイ緊張を強いられるようです。セリフが長いこともそれに加わります。



今日のひと言:向田邦子には、もっと生きていて欲しかったなあ。そうすればつまらない橋田壽賀子流のドラマも相対的に減るのにねえ。