虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

「サザエさん」イコール「渡る世間は鬼ばかり」・・・その同型性

 「サザエさん」の磯野家、「渡る世間は鬼ばかり」の岡倉家、小島家は、おそらく最も有名なTV上の家族でしょう。一方はほのぼのしたイメージがあり、また一方はなんとも言えない暗いイメージがありますが、家政学的な立場から見ると、同じものであることが言えます。それを以下に示してみましょう。まず引用したい文章があります。
『特にサザエさんのお父さんもサラリーマンで、お母さんも専業主婦で、主婦が二人とも家にいる生活は現在の三世代家族でも珍しいと思われます。このフィクションを成立させるために、嫁と姑の対立がない妻方居住という形態をとり、サザエさんが働きに行かないようにするためにタラちゃんは幼稚園以前の年齢に止められているのです。』
  (「モナ・リザ家政学」:佐々木隆国書刊行会・65P)
 この論考では、サザエさん一家が安定している理由が明解に語られています。このような設定を置いた長谷川町子は、なるほど優れていたな、と思われます。綿密な計算の上に磯野家は創造されたのです。「フネ」は「サザエ」の実母です。嫁・姑の争いは起きません。
 その観点から言えば、橋田壽賀子脚本の「渡る世間は鬼ばかり」の小島家の場合、母の「小島きみ(赤木春恵)」から見ると、頼んでもいないのに来た押しかけ女房である「小島五月(泉ピン子)」は、憎めども憎み足りない相手でしょう。通常の嫁・姑の争い以上のパラレルワールドが、小島家では日常的に繰り返されていたのです。(という言い方をするのは、最新シリーズでは、赤木春恵が出演していないからです。その代わり、何かと言うと「財産分与権放棄」を言い募る・沢田雅美演じる小姑がいます。ちょっと弱いな。)
 嫁・姑問題を見事に回避して表面に現れないようにしているのが「サザエさん」、表面に出し、ずぶずぶの泥沼状態になっているのが「渡る世間は鬼ばかり」です。現れかたは正反対とは言え、嫁・姑問題が重要なファクターであるのはどちらも同じです。
 その上に、もう一つの決定的な観点を挙げます。・・・「不倫(浮気)」が描かれているか?ということです。不倫問題は嫁・姑問題とは違い、夫婦である男女当事者間の直接的問題なので、離婚・家庭崩壊に直結しますので、これは深刻な問題です。さて、「サザエさん」の場合・・・「マスオさん」は家と会社の間を往復してキャバレーとかスナックには決して寄らない「いい夫、いいお父さん」です。不倫が取上げられる余地は絶対にありません。むしろ、そのような「いい」ダンナさんを一般に「マスオさん」というくらいですよね。そして、これまでの「渡鬼」シリーズを振り返ってみると、意外にも、「渡る世間は鬼ばかり」でも、不倫の話は出て来ないのです。あれほど岡倉家出身の娘たちの夫婦(5組)がいて、気が滅入る話のオンパレードなのに、ただの一件も不倫騒動はありません!!これは驚きです。 これはどうしたことでしょうか?思うに、「サザエさん」も「渡る世間は鬼ばかり」も、視聴者に安心感を与えるのが目的で作られているのでしょう。嫁・姑問題については、触れないという選択肢を取るとか、前面に押し出しドラマの「アクセント」に出来たりしますが、家庭崩壊につながる不倫という重いテーマでは、視聴者は安心感が得られないのです。だからこの不倫というテーマは厳重に封印する必要があるのだろうと思われます。賢明な選択です。(こう書いてきて、ふと、シリーズの初期、4女の葉子(野村真美)にちょっと不倫っぽいお話があったことを思い出しました。フィアンセ(船越英一郎)の母(草笛光子)に仲を裂かれた葉子、彼が別の女性と結婚後も彼とこっそり恋人感覚で付きあっていたというエピソードですが、これは大事に至らなかったようですので、このまま話を続けます。私の知りうる限り、この一例が例外です。まあ、「渡鬼」では不倫のお話は稀だとトーンダウンしておきます。)
 このように、「サザエさん」と「渡る世間は鬼ばかり」は同じ構造を持ったお話なのです。つまり、家庭崩壊に至るほどの問題、その核心を隠蔽するという点で、同型なのです。物語を演じる主婦と、それを見る主婦の立場と心理は絶対に安泰なのです。「自分の貞淑な妻ぶり」が再確認できますものね。両作品とも、シリーズが長続きする秘訣は、こんなところにあるわけです。まあ、毒にも薬にもならない。
まあ、お手軽に安心感を得たいという、幼児的な視聴者におもねった作品ですね。両方ともに。このレベルの作品がハバを利かせている限り、日本人の精神年齢も低いままでしょう。家庭崩壊しない範囲でのスリル(ユーモア)を味わいたい視聴者と、それを保証するドラマ(アニメ)。「安心感」というのは、ドラマなりアニメなりがシリーズ化するのには不可欠で、ギャグマンガ家としての才能は赤塚不二夫に及ばない藤子不二雄のアニメ(もちろん「ドラえもん」など)が、長期にわたって人気を保っているのは、赤塚ほど過激なギャグで見るものを不安にしないからだと思われます。

今日のひと言:「わたおに」のプロデューサー「石井ふく子」さんは、常々女優たちに「忍耐」を訓えているそうですが、それは例えば「嫁・姑問題」に耐えて家庭を維持し、ゆめゆめ不倫はするな、との教えに思えてきます。その説教を聞くこと自体、女優にとっては「忍耐」であることを、石井さんは知らないと見えます。それにしても、石井ふく子橋田壽賀子のコンビに頭の上がらぬ女優・俳優の多いこと。それもこれも上記の日本人の精神構造に支えられているのですね。このコンビのドラマが「下らない」とする、私のような視聴者が増えれば、このコンビも芸能界から退場になるのにね。今時、自前のキャラクターで視聴率の取れる木村拓哉とか織田裕二松嶋菜々子くらいでしょう、このコンビに諂わなくていいのは。まあ、諂うものの中では泉ピン子が威張っていますが。

* *ギャグ作品としての「渡る世間は鬼ばかり」を、過去ログで取り上げています。
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20060106
ご参照ください。



(以下は再録。今年初め、コンピュータの具合が悪く、コメントとしてしかエントリー出来ませんでした。)