虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

狂言回しとしての夫婦――大河ドラマ・功名が辻

 *狂言回しとしての夫婦――大河ドラマ功名が辻
 広辞苑(第4版)によれば「狂言回し」とは「歌舞伎狂言などで、主人公ではないがその狂言の進行に重要な役割をつとめる役。」とある。
 なにせ、今年2006年の大河ドラマ功名が辻」の主人公の山内一豊上川隆也・演じる)とその妻の千代(仲間由紀恵・演じる)がとてつもなく「地味」だ。一豊は正直ではあるが愚直なだけの武将だし、千代は気配りがうまい主婦でしかない。この夫婦、ばら売りでもまとめ売りでも、とても大河ドラマの主役を張れるキャラクター(役柄)ではない。数年前、松嶋菜々子唐沢寿明がやった「利家とまつ」のほうが、テイストは似ているとは言え、キャラクターとしてはまだ華があるように思える。(まあ、「利家とまつ」も、くだらない脚本を書くことで悪名高い「竹山洋」の作品なので、ひどい出来だったけど。脚本が下手糞だと言ったのは私その人だけど、実際、竹山が手がけた朝ドラの「天花」は酷かった。視聴率もしりすぼみだったと記憶している。)
 しかし、不思議なことに、この夫婦、日本史上重要な出来事にしばしば遭遇する。明智光秀織田信長を討ったあと、毛利家にあてた使者を捕らえたのはほかならぬ一豊だ。明智光秀の最期に立ち会ったのも、ほかならぬ一豊だ。茶々(のちの淀君)とさりげなく邂逅したのは、ほかならぬ千代だ。うーーん、出来すぎている。
 この大河ドラマの意義はなんなのだろうか、としばらく考えていたが、思いついた。「狂言回しとしての夫婦」として、このカップルを描いているのだ、と考えればすっきり落ち着くのではないか。戦国時代にはスーパースターが多い。織田信長明智光秀豊臣秀吉徳川家康etc。すでに逸話のほとんどは現代人には周知であるような、彼らスーパースターの逸話をなぞっていくには、山内夫婦のような個性のないカップルに「狂言回し」をさせるのが最適だろう。
 しかし、こんな評価の定まった逸話ばかり追っていて、視聴者は、なにか得るものがあるのだろうか。「ああ、あの話か、知ってる、知ってる。」と感じる程度で、なあんにも得るものはあるまい。歴史を取り扱うのなら、「教訓」とまでは言わないが、「目からウロコ」くらいのことが体験できる番組を作ったらどうなのか。だけど現状は、武将をサラリーマンに重ね合わせる程度のちゃちなものでしかない。「武将」は負ければ死ぬのに対し、「サラリーマン」は失敗しても死に問われることはない。両者を重ね合わせるのは不適切であるが、最近の大河ドラマは平気でこの種の混同をやる。「利家とまつ」もそうだった。この程度のお話しか作れないなら、大河ドラマは廃止したほうがいいのではないか。視聴者一般も知的冒険心が欠乏していると断じざるを得ない。戦国の世から読取れることは、まだ一杯あるだろうに、ただの記憶再確認に終わったり、サラリーマンの自己憐憫に引き寄せたりするのは、とても卑小だと思う。では、そんなことを言う私が何故大河や朝ドラを見ているかと言えば、「いかに詰まらないか」を分析するためである。



今日のひと言:「功名が辻」は司馬遼太郎の原作。おなじ作家の手になる作品をもとにした大河ドラマなら、「国盗り物語(くにとりものがたり)・1973年」・「花神(かしん)・1977年」・「翔ぶが如く・1990年」などの「目からウロコ」の傑作群がある。
       なお、BSで予定されている司馬遼太郎・原作の大河ドラマ坂の上の雲」に、足尾鉱毒事件の田中正造をも登場させたら、厚みのある大河になるだろうね。なぜなら、日露戦争を続行する必須物資である銅を供給したのが、足尾銅山だから。戦勝と鉱毒の光と影を鮮やかに描けると思いますが、銅だろうか?
今日の一言2:安倍晋三内閣で、金融・再チャレンジ担当大臣になった山本有二氏は、「功名が辻」とのあだ名があるそうだが、さては「狂言回し」なのだろうね。なお、本気で「再チャレンジ政策」をやるつもりなら、労働問題なのだから、担当は厚生労働大臣が兼任するのが筋だろう、つまり本気ではなかろう、という卓見を述べているブログがある。「日録(不定期)」
       http://d.hatena.ne.jp/vox_populi/20060927
うーーん、ポーズなのだな。