虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

私の卒論から~司馬遷讃(私のゲルニカ)&拙ブログ形式変更のお知らせ

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“私のゲルニカ


李陵(中島敦)より↓

・・・要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみて、はじめて判然とする底のものと思われた。彼の胸中にあるもやもやと鬱積したものを書き表わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創るという形でしか現れないのである。自分が長い間頭の中で画いて来た構想が、史といえるものか、彼にも自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものがもっと書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼は孔子にならって、述べて作らぬ方針を取ったが、しかし、孔子のそれとは多分に内容を異にする述而不作である。司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にははいらぬものだったし、また後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案はむしろ「作る」の部類にはいるように思われた。


漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝の反文化政策によって湮滅(あるいは隠匿されていた書物が)ようやく世に行われ始め、文の興らんとする気運が鬱勃として感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が史の出現を要求している時であった。司馬遷個人としては、父の遺嘱による感激が 学殖、観察眼、筆力の充実を伴ってようやく渾然たるものを生み出すべく発酵しかけて来ていた。彼の仕事は実に気持ち良く進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、はじめの五帝本記から夏殷周秦本記あたりまでは、彼も、材料を按排して記述の正確厳密を期する一人の技師にすぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽本記にはいるころから、その技術者の冷静さが怪しくなって来た。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。


 「項羽即チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美女有リ、名ハ虞。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬名ハ騅、常ニ之ニ騎ス。是ニ於テ項王乃チ悲嘆慷慨自ラ詩ヲ為リテ曰ク「力山ヲ抜キ、気世ヲ覆フ、時利アラズ、騅逝カズ、奈何スベキ、虞ヤ虞ヤ、若ヲ奈何セン」ト。歌フコト数閧、美人之ニ和ス。項王涙数行下ル。左右皆泣キ、能ク仰ギ視モノ莫シ。」


 これでいいのか?と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか?彼は「作る」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述べる」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかし何と生気溌溂たる述べ方であったか?異常な想像的視覚を持った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は時に「作る」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読み返してみて、それがあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物ははつらつたる呼吸を止める。これで「作る」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽項羽でなくなるではないか。項羽始皇帝も楚の荘王もみんな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ?そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけには行かない。元通りに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこに書かれた史上の人物が、項羽や樊噲(はんかい)や范増が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。


司馬遷は、男であった。どこにもって行っても恥ずかしくない男であった。しかし、ある時、善戦むなしく匈奴に降った将軍:李陵の弁護を、(他の官吏ばらが武帝にへつらっているにも拘わらず)決然と、しかしまた浩然と行った。単なる1文吏の向こう見ずな発言は、漢の武帝の逆鱗に触れた――司馬遷は「宮刑」を受けたのだ。


宮刑」――それは、史上、最も残酷な刑罰である。


男が男でなくなる――生殖機能を奪い取って、子孫を残せなくする――死刑なら、本人が死ぬだけであるが、宮刑は、未来末代を抹殺するのである。

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確かに、司馬遷は、その存在を否定され、少なくともオスではなくなった。しかし、私はあえて言いたい。


それでも司馬遷は男であった。(“オス”と”男“とは、全く異なった概念である。それは、”メス“と”女“が全く異なるのと同等である。)


この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活きていた。現実の生活ではふたたび開かれなくなった彼の口が、魯仲連の舌端を借りてはじめて烈々と火を吐くのである。あるいは伍子胥となって己が眼を抉らしめ、あるいは蘭相如となって秦王を叱し、あるいは太子丹となって泣いて荊軻を送った。楚の、屈原の憂憤を叙して、そのまさに泊羅(べきら)に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦をながながと引用した時、司馬遷にはその賦がどうしても己自身の作品の如き気がして仕方がなかった。

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ここで、少々筆者も自らを顧みよう。“李陵”の記述の中で、注意したいのは、


違った人間を違った人間として述べる


という部分である。私が現在の都市工学に対して抱いている不満も、どうやら、このあたりにあるようだ。すなわち、一人一日最大給水量として計算される500l(リットル)/人・日は、どんな意味を持つのか?世にはいろいろなタイプの人がおり、一日に100lしか使わない者もおれば、1000lもつかう愚か者もおるだろう。それは、個性というものであろう。しかし500l/人・日という“原単位”は、個性を抹殺することをその起源とするのだ。言わば、“要らぬお世話なのである。もちろん、これは水に限ったことではなく、現状の都市工学が、極めて非人間的なものであることと決して無縁ではあるまい。
もちろん、単に眇たる、都市工学でなく、世に行われる、あらゆる学問についても、(悲しいことではあるが)認められる傾向ではある。


司馬遷の悩んだ問題は、今でも決して、その意味を失っていない。いや、むしろ、世人のだれにとっても切実な問題となっているのだ。私は、


個性を抹殺する学問は、断じて許せない。


“計量化”という操作は、その意味で諸刃の刃である。その用い方のイロハも知らない者が手を出すと、この剣は、危険きわまりない凶器となるのだ。


そもそも、自然界の現象は、基本的に曲線的であり、それを出来る限り解りやすい形――直線におきかえようとしたところに、西欧科学文明の萌芽があった。しかし、最も簡単な曲線である“円”でさえ、“円周率”は三角形近似では扱い切れない数字(超越数)だったではないか。西欧の良心は、不可能を不可能とする明晰さを持つ。しかし、愚者は、直線で全ての曲線が割り切れると思い込む。そこには、「破壊」しかありえない!

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今日のひと言:私はある晩、水にまつわる諸問題について、私の中でもやもやとしていたものをザアッと、絵にしてみました。トリハロメタン有機塩素化合物の一種)、合成洗剤・・・その他もろもろを吐き出したのです。それが今回の一枚。私にとっては、ピカソの「ゲルニカ」に当たる絵でした。そしてこの絵を卒業論文の扉に飾ったのです。「マンガのある卒論」ということで学科内では有名になりました。なお、今回の記述は、卒論の「中休み」として書いた箇所で、卒論のテーマ(トリハロメタン)とは直接的な関係はありません。


参考過去ログ

iirei.hatenablog.com


wikiから


ゲルニカ』(Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがドイツ空軍による無差別爆撃を受けた1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画である。ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある。発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。









口上:今後のブログについて(2022.01.28)



これまで足かけ18年、はてなブログを続けてきましたが、最近は訪れる人も少なくなり、時代の流れを感じます。今回のブログを以って、旧来の書き方のブログは止めることにします。(私の内部でも、はてなブログから離れた活動をしたいという思いもあるのです。)


ただ、世の中との接触の場を、根こそぎなくしてしまうのはもったいないので、主に詩を公開していくことにします。「環境問題研究家、詩人、エッセイスト」という肩書のうち、エッセイストという側面を削る、と言えば解りやすいかな?


もっとも、長めの散文詩という形で、エッセイストの顔も出すことは可能なので、その形でたまには載せることになるでしょう。「随想録」と名付けようと思っています。これまでのブログ本文よりは相当に短い文字列です。全体的にこれまでより「軽い」ブログになるだろう、と考えています。また、詩自体、いつでもコンスタントに作れるものでもないので、ブログの更新はこれまでより不規則になると思います。


私の、旧来ブログの発信者としてのご挨拶でした。そんな形で良ければ、これからもよろしくお願いします。


                   森下礼