虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

水って、なあに?(3)水を縛る鎖

(ぜんぶで6話、私が1984年から1985年に渡って某ミニコミ誌に書いた記事を載せます。なにぶん古いですが、今でも一定の価値を持っていると自認しています。私の文章修行にあたる記事です。第3話。)

             
 「ダム」とは何でしょうか?「ムダに流れる水をせき止めて、一滴漏らさず溜めるおかげで、様々な利益を生み出せる、結構な技術」と言われます。「黒部の太陽」と言う映画もありましたし。確かに、ダムの働きは一つだけでなく、発電、上水、農業用水、工業用水、洪水防止など多数あり、特に最近のダムは、これらを器用にこなすと言われます。(多目的ダム)


 ところが、額面通りには行きません。農業用水確保用の「ため池」だって、広い意味のダムでしょう。しかし、ここで問題にしている近代的なダムは、別物です。工業が登場したので。日本の工業の発展は、水力発電と共にあり、巧みに水力発電の技術を取り入れて成功したのが、足尾銅山チッソです。それぞれ、足尾鉱毒水俣病という、今でもうずく傷跡を残しました。発電の歴史は、公害の歴史でもありました。それは、現在の「多目的ダム」でも大同小異です。洪水防止を看板にしたダムでも、実際の操作は、発電を優先することが多く、それには、ダムを満杯にしておくのが有利なので、豪雨時でも、なかなか放水しません。貯まりすぎるとあわてて放水し、下流に洪水を引き起こす。―――ダムが出来たおかげで、毎年のように洪水が起こる。(「洪水促進ダム」と改名したらどうかネ。)


 もう一つ、ダムで話題になるのは、「渇水と給水制限」でしょう。でも、落とし穴があります。まあ、十年、二十年の周期で雨の少ない年が来るのは事実で、ダムの貯水量もそれを考慮して計算されますが、そんな年でもダムの操作員が過剰放流して、渇水をひどくする場合があります。特に上水用のダムで。福岡市なども、その一例と言われています。


 さらにヒドい話は、ひとたび渇水騒ぎがあると、新たにダムをつくる口実になるということです。「水は足りない。」―――これは大ウソで、石油ショック以後、水需要が頭打ちの状態が続いており、実際には新たなダムを作る必要はありません。「水は余っている。」というのが正しい。しかし今、東京近辺では、利根川、荒川を中心に、「水資源開発」が強行されています。そのプランは、「一滴残らず、河川・湖沼から水を奪おう。」という発想のものです。尾瀬ヶ原から水を抜くという、メチャクチャなのもあります(東電による)。ダムを作るためだけの開発。実際に水は使われなくても、儲けるものは儲け、山河は確実に傷つきます。


ではもう一度、ダムそのものについて考えてみます。ダムが貯めるのは、水だけではありません。あいにく、水は他も包容する力が大きいので。例えば、土砂。ダム上流の山林が乱開発されている場合は特に大変ですが、ただでさえ日本の河川は急流です!。土砂を含んで勢いよく流れる川が、ダム湖の入り口に差し掛かると、減速して、土砂をそこに落とします。河床(川の底)が上昇し、水は高いところに流れるようになり、その分ダム上流部の洪水の危険度が増します。一方ダム下流部では、来るはずの土砂がまったく来ませんから、逆に河床が削られていきます。


土砂の問題はダムの泣き所であり、ダムが土砂で埋まれば、ダムの寿命は尽きます。早くて二十年、長くても百年もつダムはありません。ダメになったダムも壊す訳にはいかず、次のダムをその上流に作り・・・・の悪循環が始まります。やり直しの効かない点、原発に似ています。また、ダム下流の洪水は、土砂を多量に含んだ水で起こり、その破壊力は強大です。ダムがあるところ、上・下流とも、災害の危険にさらされるのです。


さらに、静止させられている水はどうなるでしょうか。ダム湖には、その周囲から土砂や落葉などが集まります。これらが栄養となって、夏にはプランクトンが大発生します。冬はおとなしくしていますが。これを繰り返すうちに、ダム湖の水はくさります。日本のような気候で水を貯めれば、当然起こることです。この水を上水として使う場合、水質汚濁の問題として表面化します。(前回のトリハロメタンも出来やすくなる。)水は流れているからこそ、汚れないのです。なまじ貯めると、水は機嫌を損ねる―――人間の浅知恵で、水を縛ることは出来ない、出来たように見えても、その正当な報酬を、水は用意しているのだ、と思えてなりません。ダムは「水を縛る鎖」です。ダムは、自然の法則に逆らうものです。ダムはムダ。

現在、水は余っていますが、状況が許せば再び消費は伸び、「水は足りない。」と叫ぶ声が大きくなることでしょう。でも、わたしたちはどれだけ水が必要なのか、本当に解っているのでしょうか。解ってもいないのに、足りない、では筋が通らないでしょう。生存のためなら、一人一日3ℓで十分。150ℓあれば、衣食住に事欠きません。ところが、上下水道の施設は、一人一日最大で500ℓ使うものとして作られるのが普通になっています。その差、350ℓとは何なのでしょう。都市民の特権、水の使いシロとでもいうのでしょうか。私たちが、水をもっと使いたいと、踊らされる分、いや踊る分、何か大切なものが失われる気がします。「余っているなら、もっと使ってもいいじゃないか。」―――私は嫌です。


ダムは問題だらけ。それでは何が出来るかと言う点で、「節水」を広めて、これ以上ダムは要らない実績を作ろう、という運動があります。確かに「節水」は、ダムの問題への有効な切り口です。しかし「節水」には、嫌なヒビキがありませんか。―――思うにそれは、押し付け、あるいは型にはめることだから。資本家に都合の良い「省エネ」と似て。都市型の生活をそのまま認めて、その上にあぐらをかいての「節水」だとすれば、あんまり面白くないと思うのです。「150ℓくそくらえ!俺は俺のやり方で水とつきあうぜ。」と考える人が増えたらいいね―――都会にいて、都会を越えられたらいいね、と思います。


最後に一つ。専門の決まる以前、私は自転車をこいで、奥秩父大滝村へ行きました。一丁前にもサイクリングです。そのとき、ひどい舗装の道路ぞいに、汚い小屋がありました。変な立て看があって。私にとって、ダムとは観光の一要素だったのです。ところがそれから三年後、再び現地を訪れました。今度は、小屋の主人に会うために。主人―――千島武氏は、ここ十数年実にしたたかな「滝沢ダム」建設反対運動をやっておられ、(このダムは首都圏の水不足解消用です。)道路がひどいのも、「どうせダムの底に沈むから、改修の必要なし。」という建設省のいやがらせだ、といった話を、そこで作った食物を振舞いながらしてくれました。―――それにうなずく私は、もちろん現地の人ではありません。ただ言えることは、ダムの問題にせよ、お互い顔を合わせて知り合ってから、話も始まるし、解決にも近づくのだろう、ということです。(「節水」の方法については、機会があれば、また。)


ダムが国を滅ぼす

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