虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

水って、なあに?(5)長ぐつのまち

(ぜんぶで6話、私が1984年から1985年に渡って某ミニコミ誌に書いた記事を載せます。なにぶん古いですが、今でも一定の価値を持っていると自認しています。私の文章修行にあたる記事です。第5話。なお、今回のブログは、生活上自動車が不可欠な人には腹の立つ内容かと思いますので、ご容赦のほどを。)


                  
 自動車って、おもしろいですね。あれは、生物に例えると、歩いているのでしょうか?それとも走っているのでしょうか?―――私は、歩いているのだと思います。何故なら、「走る」というのは、「両方の足を、空中に上げる瞬間」がありますが、自動車は、ベタァッと、四足を地面につけただけ。歩くことに近い。うん、むしろ、「はっている」という方が正確だったりして。はいまわる自動車。彼のためには、よく舗装された道路が不可欠です。どこまでもならされた、均一な道路が。


 さらに、自動車の内部、彼の体内には、パイプがはりめぐらされています。それは、人間の体でも同様ですが、彼の場合、細胞の中に血液がにじみ出すようなことはありません。ガソリンは、あくまで、パイプから外に出ることはないのです。


 さて、水と自動車には、共通点があります。石とレンガで囲まれたヨーロッパの町なみを思い浮かべてください。生ごみや汚水が出たとき、窓から放り投げると、当然、石の道路に落ちて、(土の道路とは異なり)腐って悪臭を放つので、たまらない。そこで、パイプを伝わらせて近くの河川の(まちから見て)下流部まで運び、放流するわけです。これが、今日の下水道技術の始まりです。―――舗装とパイプ!これこそ、水と自動車の共通点です。


 例をもう一つ挙げます。私が飲んでいる、小金井市貫井弁天の湧水に、硝酸汚染が著しいのは何故?―――以前、環状7号線の建設工事のため、世田谷区あたりを追い出された人たちが、(ちょうど、そのときだけは)風致地区の指定を外れていた「国分寺崖線」(多摩川が作り上げた段丘)上に移り住んで、色々な汚物を、井戸などに放り込んだ、ということだそうです。その上、舗装が進むと、雨水は地下浸透できませんから、湧水量も減ります。貫井弁天の下流にある「下弁天」にも、以前湧水がありましたが、今は、ただの窪みがあるだけ。何とかわいそうな弁天様。この上、地下には、下水道用の巨大なパイプが埋められ、地下水脈が絶ちきられる恐れもあります。(これは、貫井に限ったことではなく。)


 天の恵み―――雨水。今の都会は、この恵みを憎む生理を持っているようです。せっかくの雨を、出来るだけ早く流し去ろう!これでは、水たまりの出来る余地はありません。雨は降っても水はない―――そこで、「ダム」が登場するのでしょう。「水がない」という意味では、砂漠と全く同じです。『東京砂漠』。(内山田洋とクールファイブ)何とも傲慢な。


 「節水」対策の一つとして、雨水の有効利用が考えられています。例えば、新しく小学校を建てるとき、地下に雨水貯水槽を作り、「水洗トイレ」用に貯める、といった発想です。もちろん、それは、従来よりは一歩前進しているのでしょう。しかし、「水洗トイレ」は、汚水とのつき合いの意味で、とても思い上がった技術であり、私はそれを憎みます。(これについては、シリーズ4回目「水と土」を参照してください。)―――都市の生理には、何ら根本的な変化はないと考えます。


 東北大学助教授、栗原康(くりはら・やすし)氏(生態学)に、おもしろい著作があります。「有限の生態学」(岩波新書)。この本の後半に、宇宙船の中で、人間とクロレラが、それぞれの必要なもの・不要なものを、パイプを使ってやりとりしてやっていけるか、という話があります。人間に必要な酸素は、クロレラには不要、クロレラに必要な栄養と二酸化炭素は、人間にとっては老廃物。(栄養とは、大小便のこと。)うまくいくだろうか―――彼の結論は、このような生態系は、遅かれ早かれ崩壊する、ということです。彼いわく「自然界には“舗装とパイプ”はない。」(*)―――私も同感です。 
 こう考えてくると、現在の、上・下水道、自動車社会の行く先も、目に見えています。


(*)この発言は、「有限の生態学」のなかでというより、新聞のインタビューにあったようです。また、動物には血管、植物には導管篩管などがあり、自然界にもパイプはあると言えますね。ただし、「にじみ」あり。


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 以前なら、雨が降ると、どろんこになった道路。長ぐつが恋しいネ。自動車には都合のよい舗装は、私たちが歩くには、とても厳しいものだと思います。(私の乏しい体験のなかでも。)さらに、水と土、いずれにとっても、困ったものなのでしょう。まさか、舗道の上に種を撒くほど酔狂な人は、そういないでしょう。(いたら、すばらしいことです。是非会いたい。)


 最近、旧プロジェクトG(F市)の前庭で、畑をやり始めました。「八百屋P」のクズ野菜を持ってきて、堆肥にする。また、バケツに雨水を貯めて、雨が降らない時に野菜たちに水をやる。このときは、水道水をそのままは使いたくないのです。人間に対し有害な、現在の水道水は、当然、植物にとっても有害だと思うからです。(もっとも、生活排水は、しばらく貯めて、安定させてから、遅効性肥料とすることも可能です。)水を排除してはならない。土を排除してはならない。「どろんこ」―――これが重要だと思います。ああ、長ぐつが恋しい!


 こう考えてくると、楽しい発想は尽きません。「うん、この庭自体を八百屋にできないだろうか?」―――店舗のない八百屋。リヤカーも要らない八百屋。もちろん、「自家活用」が根本であり、余った野菜を、売るなり、分けるなりすればよい。「消費者」なんて死語!


 まちを耕すことも可能でしょう。一つの通りにある商店の意見が一致すれば、その範囲の、コンクリート舗装をひっぺがえしたらどうでしょうか。雨が降れば、どろんこ。草も生えるよ。道路の舗装率が百パーセント?上下水道の普及率が百パーセント?―――何ら誇ることではないと感じます。むしろ、悲しむべきこと。


 最後に。コンクリートやガソリンは、何から出来る?―――石油(それ自体とそれをエネルギーに使って)です。ところで、何故、石油などの鉱物資源は、地中深くあるのでしょうか。それは、不要だから。なのに、いい気になって、掘り出しては喜んでいる。これが、現在の石油文明だと思います。コンクリートは、決して自然ではない。人為なのだ、と考えます。私たち人間は、自然がいらないと言ったものに頼る必要はないし、もし、頼れば、私たちは、自然に見放され、滅亡するのだと思います。コンクリートを愛する者は、コンクリートの上で野たれ死ぬ。


(補足:現在USAが開発に躍起になっている「シェールガス」、「シェールオイル」、これも石油文明の生き残ろうという悪あがきに過ぎないと思います。)



今日の料理

  牛スジ肉の玉ねぎ汁


昔、マンガ「美味しんぼ」で牛スジ肉の牛丼が取り上げられていました。ゼラチン質が豊富なこの部位は健康にもよろしいということだったので、たまにこの料理を作ってきました。硬い肉なので、通常の鍋では歯が立ちません。そこで圧力鍋で30分近く煮込んで(20分くらいで良かったみたい、30分も加熱していたら、ガスレンジの安全装置が作動し、ストップしました)、冷まして切り分け(ギトギトの脂で手を汚し)、醤油・砂糖・玉ねぎ、ニンニクで煮込んで完成。味はまずまずと言ったところでしょうか。後片付けに苦労しました(ギトギト脂の。)写真は、2日食べる予定の1日目を食べ終わったあとの撮影でしたので、淋しく見えます。

生態システムと人間

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有限の生態学 (同時代ライブラリー)

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干潟は生きている (1980年) (岩波新書)

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