虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

佐藤春夫VS萩原朔太郎

 佐藤春夫は、文語体の詩の名手です。以下のような詩が特に有名です。

海辺の恋



こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき、
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき。


わらべとをとめよりそいぬ
ただたまゆらの火をかこみ、
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み、


入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか、
海べのこひのはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ。

若い男女の初恋の甘酸っぱさが伝わる良い詩です。この詩が文語体であることは、口語体であるより、典雅である気がします。


ところが、ここに、佐藤さんの詩にいちゃもんをつける詩人が現れました。群馬県前橋市出身の萩原朔太郎さんです。(群馬育ちの私とは同郷です。)


ここに、二人の論争に関する雑感をまとめたブログがありますので、引用します。


仮名遣い表記だけでなく、書き言葉そのものが古語から現代語へとほぼ移行した時代。
日本語について、佐藤春夫萩原朔太郎が論争をしたことがあります。


萩原が、
「時代は変わっているのに、なぜ古臭い古語や仮名づかいに拘るのか?」
と佐藤を批判すると、佐藤は、
古心を得たら、古語を使いませう」
と、いかにも詩人らしい反論をします。


私は佐藤の「海辺の恋」などを愛唱したものです。


ところが、1990年代からパソコンを使うようになると、歴史的仮名遣いはとても面倒になります。
漢字変換ソフトは基本的に「現代かなづかい」に則っているからです。


それで私も次第に「歴史的仮名遣い」には拘らないようになったものの、気持ちの中ではいつも、「語に随ふ」という哲学を持つ「歴史的仮名遣い」の言語的優位性を信じ続けています。

http://kitasendo.blog12.fc2.com/?mode=m&no=201
 教育学部長の講義日記 私の国語教室


萩原朔太郎さんは、佐藤春夫さんの詩を称して10年古いとの罵詈雑言を浴びせたそうで、佐藤さんは、彼の随筆集「退屈日記」でもこの喧嘩を取り上げていますし、上の引用にある詩を萩原さんに返しています。その詩は・・・


申し開き


夢を見たらうわ言をいいませう、
退屈したら欠伸をしませう、
腹が立ったら呶鳴りませう、
しかしだ、萩原朔太郎君、
古心を得たら古語をかたりませう。
さうではないか、萩原朔太郎君。

切り返しの言葉に文語体の詩を使うなんて、しゃれていますね。


(以上2詩は「定本 佐藤春夫全集 第1巻:臨川書店」を参考にしました。「海辺の恋」は8P、「申し開き」は56Pに掲載されています。)


さて、ライバルであった萩原朔太郎さんは、もともと他の詩人とは観点が違う人です。「萩原朔太郎詩集」(岩波文庫)によると、彼は詩を「詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。」(「月に吠える」自序)としていて、ひたすら「感情」の世界を彷徨した人であるということになりますか。詩の規定がかなり狭いのです。


今日のひと言:私から見て、萩原朔太郎さんの詩は、それほど評価できるものではありません。佐藤春夫さんを「太陽」に例えると、萩原朔太郎さんは「星屑」ですね。たとえば「大渡橋」という作品、長いから割愛しますが、高校時代に「現代国語」の教材になっていました、あまりにミミッチイ作品で、悲しい感情を詩人が抱いていたのは解りますが、ただそれだけで、共感はできない代物でした。ただ、教科書に取り上げられることの多い「竹」という詩は好いと思いますが。そんな感じで萩原朔太郎さんを、美しいこともある「星屑」と形容しているのです。


関係過去ログ

http://d.hatena.ne.jp/iirei/20111221
:田園の憂鬱(佐藤春夫)を読んだ

http://d.hatena.ne.jp/iirei/20121110
佐藤春夫の詩才



今日の一句

今年度
蒔かずにありし
麦の種


 例年秋に作付される麦、今年の私の近くで田んぼ(畑)をやっている農家たち、一軒も作付していませんでした・・・かと言って、レンゲを蒔くでもなし・・・

   (2012.11.29)


田園の憂鬱 (新潮文庫)

田園の憂鬱 (新潮文庫)

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)