虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

今村紫紅:もう一つの風神雷神図屏風

俵屋宗達の風神図→


  下に掲載したのは、夭折した明治期の画家・今村紫紅(いまむら・しこう)の作品で、琳派、なかでも「風神雷神図屏風」(国宝)を描いた俵屋宗達(たわらやそうたつ)に私淑していた今村の、同じテーマで描かれた「もうひとつの風神雷神図屏風」です。


 宗達に見られる自由闊達さをよみがえらせ、なかなかコミカルな出来になっていますね。尾形光琳酒井抱一なども、風神雷神図屏風を模写していますが、あくまで模写であり、オリジナルの宗達にはかなわないとも思いますが、今村紫紅の場合、オリジナルとはまた一つ違った様子で好感がもてる創作態度ですね。


尾形光琳酒井抱一も、宗達をよく理解しておらず、明治期の今村紫紅が初めて宗達の持つ「大胆さ、暢気さ」を再発見したのですね。彼は師の岡倉天心に「好きな画家はだれか」と問われた際、言下に光琳でもなく抱一でもなく)「宗達」と答えたそうです。(「俵屋宗達  琳派の祖の真実」:古田亮:平凡社新書)より。


1880〜1916 日本画家。本名寿三郎。横浜に生まれる。1897年(明治30)日本画をまなんでいた兄保之助にしたがい上京し、ともに松本楓湖(ふうこ)の安雅堂画塾に入門。翌年からみずから紫紅と号するようになった。1900年、安田靫彦(ゆきひこ)ら小堀鞆音(ともと)門下のわかい画家たちによる研究グループ紫紅(しこう)会に参加するが、この会は、紫紅の参加により紅児(こうじ)会とあら ためられた。

1907年には、茨城県五浦(いづら)の日本美術院研究所で横山大観菱田春草の作品に接して刺激をうけ、その影響のもとに制作した「達磨(だるま)」を10年の第10回巽(たつみ)画会展に出品、2等銀賞を受賞した。さらに翌年の第5回文部省美術展覧会(文展)に「護花鈴(ごかれい)」を出品して褒状(ほうじょう)をうけ、この作品に感激した実業家の原富太郎(三渓)から援助をうけることになった。12年(大正元)には、第6回文展に濃密な色彩表現による「近江(おうみ)八景」を出品して2等3席となり、注目をあびる

1914年、インドに旅行。同年、日本美術院再興に同人として参画し、その第1回展にインド旅行に取材した「熱国之巻」2巻を出品した。琳派や南画(→ 文人画)はもとより、後期印象派など西洋近代絵画からもまなんだこの時期の作品は、豪放な筆致と豊かな色彩を特徴とし、近代日本画の中でも異彩をはなっている。
同じく1914年の暮れには速水御舟、小茂田青樹(おもだせいじゅ)など新進の画家たちと赤曜(せきよう)会を結成、翌年から展覧会を開催したが、16年に35歳の若さで病死した。

MSNエンカルタ百科事典ダイジェストより。
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161539538/content.html
絵の出典は「すぐわかる 琳派の美術」(仲町啓子・監修:東京美術:2000円+TAX)



今日のひと言:明治期の日本の画家は、優秀な人がめじろ押しです。いつか取り上げた菱田春草などもね。ただ紫紅と春草はどちらもインドに絵画留学していて、おなじく病に倒れ、30代でなくなるところが、なんだか符合していて不気味でしたね。寿命と引き換えに色彩感覚を磨いたということでしょうか。


 確かに、画家にとって写生旅行は、色彩の何たるかを知るのに、不可欠なチョイスなのですが・・・スイス人のパウル・クレーチュニジア旅行で色彩を理解したのです。

関連過去ログ
 宗達のイヌ:http://d.hatena.ne.jp/iirei/20070912
菱田春草の猫:http://d.hatena.ne.jp/iirei/20080325
パウル・クレーhttp://d.hatena.ne.jp/iirei/20090426



今日の一句



冬はじめ
いま咲きたるか 
ツワブキ



 東日本ではそうでもないですが、ツワブキは西日本ではよく食用にされていて、一説にフキ(蕗)より美味しいと言われます。私も食べたことがありますが、中々の味でした。群馬県出身で大分県に嫁いだ男性、「美味しい、美味しい」と涙していたそうです。私はもっぱら観賞用に育てています。(2010.11.16)


今村紫紅 ―近代日本画の鬼才 (有隣新書47)

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