虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

紙の辞書か電子辞書か:紙媒体VS電子媒体

私は高校生のころ、英語と数学を得意とし、東京大学理科1類に合格しましたが、受験の名門・駿台予備校の模擬試験で、英語の成績が理科系で1位、文科系合わせても3位の成績を挙げたことがあります。これは高校3年生の時で、2年生のときには代々木ゼミナールの夏期講習で、一緒に学生の宿にお世話になった者たちがいましたが、そのうち1人に「君は言語学者が向いているのではないか」と言われたことがあります。それほど英語に打ち込んでいたわけです。


さて、英語の学習法ですが、私には3つの大きな武器があり、一つは単語を系統的に覚えられる道しるべとなった「英単語記憶術」(岩田一男)、もう一つは「英文解釈教室」(伊藤和夫)、そして最後が英和辞典です。辞典自体はなんら変哲のないものですが、私は手めくりでこの辞典を念入りに引き、「目的の単語に行きついて、それで終わりではなく、周囲の掲載されていた単語も合わせて一瞥したのです」。たとえば「snob」という「俗物」を意味する名詞に当たれば、その形容詞化した単語、副詞化した単語も同時に覚えるのです。「一回で2度美味しい」という具合です。「俗物根性」は「snobbery 」、「俗物根性の」は「snobbish 」となるわけですね。


http://d.hatena.ne.jp/iirei/20130409#1365477982

 :受験英語のバイブル


そこへ行くと、電子辞書で単語を調べる際には対応する英単語を求め、日本語で入力すると、「ディジタル」式に「たった」一つの対応する単語が眼に入るだけです。これは、如何にももったいないですね。


紙の辞書は、引くのに労力はかかりますが、複数の単語が同時に読めて、メリットがあります。電子の辞書は、手間は簡単ですが、一つの単語にしか眼を通せません。両者とも一長一短があるということですね。紙をめくるという操作を行うと、手間の掛かる分、英単語を覚えられるというのが私の主張です。哲学者:カントは「手は体の外に出た脳である」と語っていました。


辞書と言えば、私は小学校低学年のころ、国語辞典を引いて、「病気」の名前を調べて遊んでいたことがあります。(ちょっと異様な趣味ですが)国語辞典をハシカラ・ハシマデ引いて。「花柳病」というのが出て来たとき、意味が解らずに大人に訊いたことがありますが、彼女らは、困ったそぶりをしただけでした。あとでもっと成長してからこの言葉を振り返るに、「性病」である、と解りましたので、あのとき彼女らが口ごもったことは、よく理解できました。


ちょっと視点を変えて・・・最近のベストセラーに、「リテラシー能力は5歳までに決まる」、という本があるようですね。正確な書籍名は忘れましたが。この5歳までの間の読書量の多寡が、後々の言語能力(リテラシー)を決定する、とのことでしょうが、私は、さすがに5歳まで、どんな読書をしていたか思い出せませんが、小学校高学年くらいには、西遊記水滸伝三国志など中国三大奇書には眼を通しました。中々出来ないことと自分では思います。


それにしても、5歳で言語能力形成のチャンスを区切ってしまうのも、これまた問題があるでしょうね。もし、この言説が「正しい」ものだと思い込み、「わが子を電車に乗り遅らせるな」とばかり親御さんが、早期読書計画を立て、子供をそのキツキツなカリキュラムに引き込むこともまた問題だと思います。



今日のひと言:学力競争は、すでに保育園、幼稚園で始まっているのだと思います。この頃の学習こそが、将来のリテラシー能力の発現に寄与することがあるかも知れません。なんだか世知辛いですが。


英文解釈教室 改訂版

英文解釈教室 改訂版

子供の脳は5歳までに準備しなさい

子供の脳は5歳までに準備しなさい



今日の一品


@蓮根とクルミナンプラー炒め



弟作。蓮根、クルミ、キリイカを炒め、仕上がりにナンプラーを入れました。砂糖は使わなかったですが、蓮根が甘かったのが意外です。

 (2016.12.08)



@虹鱒のフェンネル焼き



正確にはフローレンス・フェンネルですが、魚料理と相性が良いのは、フェンネルと同等です。

 (2016.12.09)



@牛薄切り肉のペペロンチーノ風



牛肉をスパゲティと見立てて、唐辛子、ニンニク、塩で炒めました。

 (2016.12.11)




今日の詩(2編)


@ブログの一生


私は日々更新される
ブログそのもの
私を書かせる者がいるが
その者は不死である。


だから、私が更新されなくなった時
その時はブログのみ死ぬのだ
日々一枚一枚と
更新されるブログは――


いかに不死の者の影を宿しているのか
自問しても面白いだろう
それは人生の歩みにも似ている
死んでも愛されるブログもある。



最近、大腸がんを治療して感じた無常観、それも案外クールな観念を詩にしてみました。この詩においては、ブログ≒ブロガーとして書いています。「文は人なり。」(≒は、数学でほぼ同じという記号です。)

 (2016.12.08)




太陽光パネル


電車の車窓から見て
実に広い範囲に
太陽光パネルが見える。


ここは元農地だった。
パネルを設置すると
そこで育っていた植物は排除される。



・・・すなわち
食料は採れない
電気を取るか、食料を取るか。


同時になんて無理なのだ。
太陽光の恩恵は
一方にしか行かないのだ。



 (2016.12.10)




今日の二句


今回も
キャベツ植えるか
“工夫なし”



いつでもキャベツばかり栽培する畑を見て。連作障害は起きないのだろうか?

 (2016.12.10)



光浴び
つやつや照るや
葵(アオイ)かな



 (2016.12.10)