虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

老子・各章解題〜〜その1

 中国の古典・「老子」は短い文章の断章・81章(5000余言)からなる全体も短い文献ですが、その意味するところは非常に深いです。これから、3回に分けて、各章のキーワード、要諦を挙げてみようと思います。@1=1章と言う具合に表記します。81÷3=27章づつです。出典は「老子」(小川環樹・訳注:中公文庫)からです。このブログは、何より私のなかの老子インデックスを付け、整理整頓する意味があります。ちょっと取っ掛かりにくい人もいると思われるので、一回置きにエントリーします。


@1:「真の道は、語り得ない(意訳です:原文は「道の道う(言う)べきは、常の道にあらず」」&「有無の差異・無の優位性」・・・のっけから、老子で最も難しい章の一つ。


(注)この「道の言うべきは、常の道にあらず」という文言、「常=不変」とは(小川さんの注では)道が語りうるものであれば「不変の」道ではない・・・とされる。ただ、「常=不変の道、原理」という概念ではなく、「常」という言葉の意味を別の意味に取り、「常=普通の」ということであるとして、道一般について「道」と呼ぶことも妥当だと当然思われるので、「常」に関して相反するその両方の意味を内包するという意味で、私は「真の道は、語り得ない」とした。その証拠に、老荘思想の影響を受けて成立した禅宗の僧・趙州従諗:(じょうしゅう・じゅうしん)の弟子との問答で「道とは何ですか?」との問いに趙州は「道か。道なら都に真っ直ぐだ」と答えている。 形而上学的な問いを門前払いした格好になっているのだ。「現実密着型」の老子の教えには、抽象的な喩えより具体的な文言が相応しいと思う。趙州従諗の道に関する理解も妥当であると。・・・それにしても、「常なる道についての発言が無意味」だとすれば、「老子」一巻も無意味になってしまうが・・・


@2:「美醜の相対性・二項対立の解消」(世の中のみんながみんな、あるものを「美しい」とする 
  時、そのものはすでに醜くなっている。)                  


@3:「知恵者を重用するべからず」&「得難きの貨を貴ばず」(入手しにくい品物を尊いとせず、求めない)&「無為をなせば(為無為)治まらないことはない」  「為無為」・・・老子の根本概念のひとつ。ただし、怠惰な毎日を過ごすことは、無為とは呼ばない。


@4:「壷に水がなくならないことを道の働きとする」&「和光同塵」(聖人は、その所有する内なる力・光を発揮せず(和光)、一般のひとと同じように生きる。(同塵))


@5:「天地に仁がないように、聖人にも仁はない」&「しゃべりすぎるな」(この場合、仁とは儒家の根本概念=人の心の優しさで、人の人である所以とされるが、老子はそれを否定する。)


@6:「(水の集る)谷の神は不死である」


@7:「聖人は私(わたくし)がないから、逆に私事を完遂する」


@8:「水は道に近い」「万物を利して争わず、みんなの蔑むところにいる」「上善若水(上善水のごとし)」:老子は水を讃える。


@9:「無理な物事の保持は止めるがよかろう」


@10:「(一種の瞑想のことを書いた章)」


@11:「無には大いなる用途がある」


@12:「外部からの刺激に迷わされるな」&ふたたび「得難きの貨」(@3)


@13:「他人からの評価を気にするのは、自分という身体を持つからだ。もし身体をもたなければ、何の害を受けようか。」「自分の身体のみ大切にする人にこそ、天下を引き受けさせられる。」(矛盾に満ちた一章、@7参照。)このようなことのできる人は、臨死体験を持った人とかに限られるだろう。


@14:「視ることの出来ないもの、聴くことの出来ないもの、捕らえることの出来ないもの:これらを認識するのは、道の働きである。」


@15:「昔の士(おとこ)の有様を書く。」


@16:「万物は茂り栄えても、必ず根元に帰る。」「←この真理を知るものは道に到達する。」


@17:「王の4分類」 (もっとも優れた王は、人民はそのような人がいると知るのみである。
 次のランクの王は、人民が褒め称える・・・・といった感じ。)


@18:「大道すたれて仁義あり。←儒家の根本概念の相対化をしている。:仁や義という徳目が産れるのは、道が失われた後である。」(@5参照)


@19:「聖・智を廃棄せよ、仁・義を廃棄せよ、そうすれば民衆は利益を得、また孝行するようになるであろう。」&「樸(あらき):切り出したままの木材」は、まだ加工されていろいろな部材になって使役される前の状態であり、老子はこれを讃える。


@20:「学問になんの価値がある?」&「世の人たちは宴会に浮かれたようだが、私はまだ笑ったことのない赤子のようだ。私は母なる道の乳房に養われて良しとする者だ。」


@21:「大いなる徳のありさま。」&「惟恍惟惚:「恍惚の語源」


@22:「ねじ曲げられたものが完全に残る。」


@23:「いつでもおしゃべりであることは自然に反する。自然現象もそうである。」(飄風(ひょうふう:激しい風)も朝を終えず、驟雨(しゅうう:激しい雨)も日を終えず。)


@24:「無理な行動は長続きしない。」


@25:「道は天地より先に生まれた。」


@26:「君子は軽々しい行動はしない。」 旅行中、素晴らしい風景に出会っても、車から出ない。
  このありさまを「燕処超然:えんしょちょうぜん」という。世界における自分の重要性を知るからである。


@27:「ものごとに勝れた者はその行為の足跡を残さない。」&「聖人は何者をも見捨てない。」「師資・・・先生と弟子のこと。」:聖人から見ると、ほとんど全ての人は不完全だが、彼らを元手(資本:これは現在の資本主義と同じ字の用法。)として、自分を磨く。


(注の注:@1での趙州の逸話は「禅――現代に生きるもの:紀野一義NHK出版」が出典。)


参考過去ログ :老子の七定理

  http://d.hatena.ne.jp/iirei/20090610#1244587647



老子 (中公文庫)

老子 (中公文庫)




今日の料理


@みどり豆の煮ものシナモン風味



 大豆の一種、みどり豆を使って煮豆を作ろうと思ったのですが、吸水に一昼夜かけてしまったので水が腐ってしまい、水を取り替え煮て、再び水を取り替えて・・・なんとか臭いが気にならなくなりました。大豆と昆布はお互いの毒を消しあう関係だったと思われるので、昆布も入れ、醤油、砂糖(甜菜糖)で味をつけ、最後にシナモンを入れて形にしました。ただ、醤油をいれたおかげでみどり色がわからなくなったのが残念です。

  (2013.08.18)




今日の二句



名を付けて
稗田の荒れや
駄農の田


ことしも、イネを育てるという名目で、実はヒエを育てている農家の惨状が明らかになってきたのを見て。「稗田の荒れ」とは古事記の暗唱者「稗田阿礼」にかこつけて。(ちなみに写真はこの田ではなく、隣りの田で綺麗にヒエが穂を付けていたのを撮りました。画面左上、褐色ぽいのがヒエの穂です。ただこちらは近いうちにヒエを抜き去ることが想定されますが、駄農の畑の場合、(今回は鮮明に写真に映りませんでしたが)今後沢山ヒエの穂が稲の穂を上から押さえつけることになるでしょう。(ヒエの背丈はイネより高いです。)

  (2013.08.19)



ヤブラン
仏塔のごと
咲き誇る


ここ数年で庭に定着したヤブラン(ユリ科)。花の付き方から、仏塔を連想したのです。

 (2013.08.20)