虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

経産省のずる賢さ


 経産省というと、思いだされる友人があります。東京大学理科一類で私と同年度・同クラスになったG君です。彼は、私に「知性」というものの凄さを教えてくれた友人で、一時期、駒場キャンパスに近い下宿に住む彼のもとに入り浸ったこともあります。


 彼はIQ(知能指数)は間違えなく高い人でしたが、また遊び人でもありました。高校時以来の恋人と「出来た」にも関わらず、いろいろ浮気をしていて、はなはだしくは人妻にも食指を動かします。そのためその恋人とは別れたようです。


 部活動は「奇術クラブ」に所属していて、「騙しのテクニック」を磨いていたようです。そしてその本領は専門を決める際に大いに発揮されたようです。(注:東大の場合、科類によっては、人気学科に進学するにはそれまでの教養課程の科目の成績順に採られるので、かなり過酷で、人気学科にいくのは諦めることが多いのです。)


 彼は超人気学科の「電気・電子工学科」に進学しました。遊び人で成績の悪かった彼は「当て馬」を使ったのです。成績の良い学生を友人にして、彼らに一次志望を電気・電子工学科に出してもらい、他の志望者があまりのレベルの高さにしり込みして他の学科に鞍替えさせて、その穴にG君本人が入り込むという寸法です。(他にも、私の知り合いで同じ手法で数学科に進学した男もいます。ちなみに、私は、私の成績よりよほど偏差値が下の都市工学科衛生コース衛生工学)に進学しました。なに、そのとき落ち込んでいて、どうせなら「汚いものを扱う」という衛生コースにまで堕ちてやれ!という捨て鉢な気持ちで選びました。今ではそれで正解だったと思っています。)


 そして首尾よく卒業したG君は通産省(現・経産省)に入省しました。・・・そして、G君の資質は、まさに経産省向きであったと言えるかと思います。原発関係で、騙しのテクニックを発揮しているように思えてならないのですが。


 さて、その経産省ですが、この役所はよく名前が変わります。以下wikipediaより。

商工省(しょうこうしょう)は、過去において存在した日本の中央官庁。1925年に農商務省を分割して設立され、昭和の前半期に商工業の奨励・統制を担った国家機関。長は商工大臣。戦時中に軍需産業強化のため一時軍需省に改組されたが、終戦後すぐに商工省に復帰し、1949年の国家行政組織法施行直前に通商産業省に改組。現在の経済産業省の前身。


軍需省(ぐんじゅしょう)は太平洋戦争期に設置された日本の行政機関の一つ。戦時の軍需産業強化の必要性のため、1943年11月1日、商工省の大半と企画院とを統合して設置(軍需省官制(昭和18年勅令第824号)による)された省。軍需大臣(ぐんじゅだいじん)を長として、軍需次官以下、内部部局の大臣官房、総動員局と八つの局、および外局、さらに地方支分部局によって構成され、軍需関連会社を所管した。
軍部と密接に関わる行政だったことから陸海軍人要職に就く例が多かった。1945年2月、戦局の更なる悪化、本土への空襲の本格化に対応して軍需工場の疎開を円滑に行う為、省内に臨時生産防衛対策中央本部が設置された。同本部の総裁は軍需大臣、事務総長は総動員局長、事務次長は総動員局第2部長がそれぞれ就いた。戦後の進駐軍上陸を目前としていた1945年8月26日、椎名悦三郎次官らの指導によって商工省に復帰した。


通商産業省の沿革は、1949年(昭和24年)5月25日、商工省とその外局である貿易庁、石炭庁を統合して発足した。この組織を考えたのは白洲次郎といわれる。発足当初の通産省には、吉田茂 - 白洲 - 牛場信彦らの「外交派」・「通商派」ラインとして、時に「永山天皇」と呼ばれた永山時雄初代官房長らがおり、主流である「産業派」・「統制派」には岸信介 - 椎名悦三郎 - 美濃部洋次 - 山本高行ラインとして、玉置敬三や平井富三郎、佐橋滋、今井善衛などが名を連ね、その他「商務派」には豊田雅孝らがいた。その後も、「資源派」・「国際派」と「国内派」との対立軸など、現在に至るまで省内における政策対立ないし派閥争いには事欠かないことでも知られている。


通産省)発足当時は資源庁、工業技術庁、特許庁中小企業庁の4つの外局があったが、1952年に組織改革が行われ、外局は特許庁中小企業庁の2つになった。1972年に田中角栄通商産業大臣から内閣総理大臣に就任した時、通商産業省出身者が総理大臣秘書官を担当するようになった。これが前例となり、後の内閣も通商産業省から出向で総理大臣秘書官を担当するようになり、首相への通商産業省の影響度が大きくなった。1973年に新たな外局・資源エネルギー庁を設置。2001年1月の中央省庁再編に伴い、経済産業省に名称変更された。ただ「経済」の名称は、マクロ経済政策経済計画)の所掌を含む意味を持つため、現状ではそぐわないとの指摘もなされる。

商工省→軍需省→商工省→通商産業省経済産業省  と変遷したのですね。

特に、戦後軍需省の名称のままではGHQに睨まれると恐れた軍需省の役人は、省の改名にいそしみ、「公印」の変更、関係省庁との所管事務の調整、関連法令の整備など、通常一年は掛かる作業を10日ほどでやってのけ、軍人以外は戦時体制のまま、生き延びることができたそうです。ここで書いた事実は「戦後日本経済史」(野口悠紀雄:新潮選書)に書かれています。この本はとてもユニークな本で、日本の場合、戦争が終わっても戦時中の経済は生き残り、以後の日本を導いたとの主張が見られます。その中心にあったものの一つが通商産業省だったというわけです。軍需省の挙動とそのパワーを見ればなるほど、と納得できますね。


 また、今年7月29日に報道されたニュースで、経産省の外局・原子力安全・保安院が、原発の是非をめぐるシンポジウムで、中部電力に「さくら」を動員するように働きかけていたことが判明しましたね。本省に似て、ずる賢さが横溢していますね。原発の可否をめぐって、中立であるべきところ、原発の推進派そのものだったのですね。このような公共事業のことを「Do Nothing :何もしないこと=無為」がない、と、都市計画では呼びます。「施設をつくらない」という選択肢がないわけで、それだけで杜撰な計画ということになるのです。


今日のひと言:「戦後日本経済史」は、週刊新潮で2006.8月から2007.7月まで連載された「戦時体制いまだ終わらず」を単行本にしたものです。連載当時は読まなかった・・・です。・・・(見る眼がなかったのかも。)なお、東日本大震災の際のいろいろな不都合に対し、「原子力安全・保安院」を経産省の外郭団体から環境省の外郭団体にする、という話がありますが、職員・施設をそのまま移管するなら、おそらくは経産省ヒモつきの団体になることもあるかな、と思います。

戦後日本経済史 (新潮選書)

戦後日本経済史 (新潮選書)

ポケット図解 経済産業省のカラクリと仕事がわかる本 (Shuwasystem Business Guide Book)

ポケット図解 経済産業省のカラクリと仕事がわかる本 (Shuwasystem Business Guide Book)

(お断り:8月29日から2,3日、旅に出ます。その分コメント返しは遅れますが、必ずするようにしますので、どしどしコメントを下さい。)