虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

フォーレの耳疾


 ガブリエル・ウルバン・フォーレ(Gabriel−Urbain Faur‘e:1845−1924)は、見事なメロディーラインと和音で、佳曲をいくつも書いています。原作のありふれた詩をみごとな歌曲にひっぱりあげた「夢のあとで」、一組の男女の悲恋を描いた「ペレアスとメリザンド組曲」の一曲「シシリエンヌ:別名シチリアーノ」、官能的な愛を描いた「イスパハンのバラ」、一部ではモーツアルトのそれより出来が良いといわれる「レクイエム」などが代表的です。おそらく、これらのうち一曲は聴いたことがある人も多いでしょうね。


 そのフォーレを耳疾が襲います。1903年ころのことですが、こう彼の息子は書いています。



「ベートーベンに長期にわたってつきまとった絶望感やシューマンの苦しみは、彼自身のものでもあったのです・・・・難聴に加えて、不幸にも彼にはより悪質なデフォルメした音が聞こえ、低音域は3度高く、高音域は3度低く感じられたのです。そしてただ中音域のみが弱いながらも正確に知覚されていました。」
ガブリエル・フォーレ」(ジャン=ミシェル・ネクトゥー)より引用。


たしかにベートーベンも晩年耳疾・・・完全に音が聴こえなくなる、という疾患に襲われましたし、シューマンもそうかもしれませんが、フォーレを襲ったこの耳疾は、ベートーベンやシューマンよりも、とくに和音の権威であるフォーレにとって、より重い枷(かせ)だったと思います。美しい和音が雑音にしか聴こえないのですから。これは、「音による拷問」であるとも言えるでしょう。


フォーレはその音楽家としてのキャリアをニデルメイエール宗教音楽学校でスタートし、ここで和音を自分のものにしたのです。このころからサン=サーンスとの一生続く交友関係を送ります。


 1905年、フォーレの教え子のラヴェルが「ローマ大賞」受賞を逃した責任を取って、前任者が辞め、パリ国立音楽院・院長に抜擢されます。ただ浮き世での名声は気にしなかった彼も、院長になるや大変革を断行したらしいです。


 フォーレの歴史的な評価については、ロマン派の音楽と現代音楽の関節のような位置におり、両者の架け橋となった、というのが代表的ですが、私はフォーレという独立峰をそこに見ます。だって、こんなに和音とメロディーラインが優れていて、ドビュッシーの「アラベスク」のように、ただ美しいだけ、という歌ではないんですもん。その証拠に、詩人のヴェルレーヌとか小説家のマルセル・プルーストなども献辞をフォーレに送っています。
 死後、彼フォーレはフランスの国葬に付されたそうです。


今日のひと言:こんな酷い状態で書かれた曲の代表作が「ピアノ五重奏曲第二番」です。
この曲は、音楽上のフォーレの遺言であるとされていますが、荘厳さと諦観を秘めた名曲だと思います。「音のひずみ」は、まったくありません。あの耳疾にもめげず、たいしたものです。なお、フォーレピアノ曲、歌曲、室内楽曲をもっぱら書き、交響曲管弦楽はあまり多く書いていません。これも彼の控え目な性格のなせる業といえるでしょうか。


 ”夢のあとで”


評伝フォーレ―明暗の響き

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