虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

鉄腕アトム、古代進、アムロ・レイ、碇シンジ

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鉄腕アトム古代進アムロ・レイ碇シンジ

 SFアニメの主人公の変遷について考察しようと思います。0世代が「鉄腕アトム」、1世代が「宇宙戦艦ヤマト」、2世代が「機動戦士ガンダム」、3世代が「新世紀エヴァンゲリオン」であるとします。
 1世代の「宇宙戦艦ヤマト」(1974)の場合、主人公の古代進における「戦いの動機」は、極めて明確で、「ガミラス星人によって汚染された地球を救うため、イスカンダル星まで放射能除去装置を受け取りにいく。途中、ガミラスとの戦いも辞さない」です。一貫してブレがありません。また、「戦いの過程においての心理変化」もありません。「宇宙戦艦ヤマト」で顕著だったのはメカの描写が斬新で、それまでのSFアニメにないものがありました。ただ、「戦いの動機」と「戦いの過程においての心理変化」のありかたについては、当時の「マジンガーZ」とか「ゲッターロボ」「バビル2世」「ガッチャマン」も同様で、戦うことは所与のことであり、戦う過程での心理も変化ありません。
 2世代の「機動戦士ガンダム」(1980)のアムロ・レイにおいて、この状況に劇的な変化が現れます。アムロには明確な「戦いの動機」がありません。この設定は、それまでのアニメになかったことです。アムロは、知らぬ間に戦争に巻き込まれてしまいます。ただ、「戦いの過程においての心理変化」については、次第に戦いの意味を自分なりに理解し、戦士として成長していきます。(最初にガンダムに搭乗したのは戦うためでしたが、その後の戦いについては懐疑的であり続けます。その点、戦うことを第一義にしたシャア・アズナブルとは好対照です。)
 3世代の「新世紀エヴァンゲリオン」(1995)の碇シンジの立場はアムロ・レイと似ています。シンジにも明確な「戦いの動機」がありません。彼も自分の意志に関わりなく、戦いを強いられます。でもアムロと違うのは、シンジにとっての戦いの意味は最後まで見出せず、「自分がここにいてもいいんだ」といった「承認願望」を満たすことにのみ戦いの意味があり(宮台真司http://www.miyadai.com/index.php?itemid=403)、「戦いの過程においての心理変化」は明確ではありません。まあ、うまく戦えることによって、父の碇ゲンドウとか同僚の綾波レイ、葛城ミサキに認めてもらえることが関心事なのです。
 このように1世代から3世代まで見てみると、「戦い」に意味を見出せなくなっていく変化が見られます。
 0世代の「鉄腕アトム」には、面白いエピソードがあります。ロボットである自分がロボットと戦うという設定に疑問を抱いたアトム、戦うことを拒否しちゃうんですね。これはある意味、最も進化した設定であるかも知れません。ただこのエピソードは当時の視聴者には不評で、このお話はすぐに取りやめたそうですが。(これは、アニメレベルでではなく、マンガレベルでのお話だったかも知れません。)今なら受けたでしょうが。
このような、「戦う意味それ自体に疑問を呈する」という視点は、今なら確かにありえます。ウルトラマン・シリーズでも同様な視点が多く見られますね。



今日のひと言:「交響詩篇エウレカセブン」を見てみようと思い、チャンネルを合わせたことがありましたが、オープニング・アニメを見て挫折しましたね。なんだかメカに乗った登場人物たちがコミュニケーションし合っている、ああ、それが目標の「お仲間アニメ」なんだな、と思ったのです。「仲間」をもっとも大事にするという、もっと言えば「群れたい」という最近の若者の習性を映像にしただけのアニメだと思ったのです。このようなアニメが4世代と言えるでしょうかねん。ためしにエウレカDVDの初期、中期、後期の3つを借りてきましたが、先に述べた映像はオープニング第2作目(「少年ハート」BY「HOME MADE 家族」)がそれに該当しました。登場人物2者間同士で、見つめることと、アイ・コンタクトをすること、あえて視線を結ばないことが複数組描かれていました。大体、オープニングでその作品がどの程度のものか、解ってしまうものなのです。また、サーフィングをするロボットというのも設定として(私的には)気に入りません。戦う主体としては、塔州連邦軍ゲッコーステイトエロイカとかレントンたちが所属する組織)同士では、空賊軍(ゲッコーステイト)では正規軍と戦いをするのは無理なような気がしますねえ。ヤマトとかガンダムのような、星同士、国同士の対等なお話とは本質的に違います。ゲッコウステートはただの無法者集団であるということになるでしょうね。ここでも、戦いの意味は問われていないような気がします。というか、戦争は小道具であるとさえ思えるのです。この作品の世界観においては。なんと言っても、恋人のカップルが5組(例えば女性であるエウレカと男性であるレントン)以上描かれていますから。彼らの恋愛ドラマと言ってもいいでしょう。だって、製作者は、このドラマが戦争ドラマであるとは、ひと言も言っていませんしね。


 
今日の川柳(男女の愛をテーマにして・字あまり)



わたし こっち
ぼくはあっちだ
じゃあバイバイ。



↑恋の破局を詠んでいます。