小阪修平氏を悼む
- 作者: 小阪修平
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本日8月11日付けの朝日新聞をみたら驚きました。旧来の知り合い、小阪修平氏が心室細動により、亡くなられたというのです。現代思想を「解りやすく」解説した著作群により認知された方です。この訃報はそのほかの、読売、毎日、産経、日経では報じられいませんでした。
私が小阪氏と知り合いになったのは、現在は存在しない「東大学力増進会(学増)」の国語科の講師としてです。中学生相手に夏季、冬季の休み中に主要5科目を教える会であって、講師は現役東大生、OBなどが勤めていました。なかでも国語科には面白い人がいるというので、当時理科系から文科系への転科を考えていた私は国語科に応募しみごと合格したといった具合です。そこで知り合ったのが小阪さんです。(もちろん、面白い人でした。)
以下私の私家版「エリートってなあに?――東大生の学習体験」から、小阪さんについて触れた部分を引っ張ってきます。
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///「自分には、教師は向いていない」と思い込みました。「学増の講師も今回限り、教職の資格も取るまい」と。そして、私は、フランス文学科を諦め、都市工学科を選びました。どこかの水道局にでも勤めるつもりで。
学増との再会
都市工学科進学後もアルバイトはしましたが、教育関係は意識的に避けました。病院の清掃、印刷業、製本業、運転助手,焼却炉販売などです。どれも結構辛い仕事でした。卒業間際には、消火器販売会社でアルバイトです。2度目の留年のため、父がもう学費を出してくれず、今度卒業しなくてはもう中退しかない、といったところまで追い詰められていました。だから必死でした。そしてなんとか卒業出来た際、もう1年卒論の継続をしたいため、研究生になろうと考えました。でも、その際の生活費、学費はどうするか、といった難問にぶち当たりました。学費は厚顔にも中西助手に出してもらうことになりました。私の、研究室における価値を値踏みして、彼女と交渉した訳です。さて、生活費は?――父がアドバイスしてくれました。「学増があるだろう?」それはそうだ、ということで、3年ぶりになりましたが、国語科講師のA氏に連絡したところ、もう学増には在籍していない、というので、小阪氏に連絡を取りました。ちょうど冬季講習の反省会をしていたので、その会場に来るように言われました。行ったところ、小阪氏:「ああ、君か。」――私を覚えていてくれました。以後、学増が解体するまで国語科講師をしました。
小阪氏の力量
一度、小阪氏と一緒に武蔵境会場で、日曜日の特別授業をやったことがあります。2クラスなのでお互いどんな授業をしたかは、受講した生徒達だけが知っています。「去年今年を貫く棒のごときもの」という、たしか高浜虚子の俳句についてどのように教えたか?私は、いわゆるシュール・レアリズム的視点から、この俳句の持っている破壊性について話しました。ある意味、生徒は唖然としていました。混乱を与えてしまったのです。授業後、小阪氏とどんな授業をしたか情報交換したところ、彼は俳句そのものに即し、生徒になんとか理解させることが出来た、とのことでした。
私は思いました。「ああ、これは小阪さんにはかなわないな」と。高度な道具、手段を使えば、もちろん授業はできます。私のように。そんな道具を使わずに教えるのは余程実力がなければ出来ません。私も彼の如き授業をしなくては、と思いました。
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小阪さん、ご冥福をお祈りします。