- 作者: 小川環樹
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1997/03/01
- メディア: 文庫
- 購入: 7人 クリック: 40回
- この商品を含むブログ (44件) を見る
**老子は古代中国の哲学者。図書館の司書をしていたが、当時の王朝が衰微したのを感じ、西方に向かうとき、関所の役人・インキ(正確な字が変換できない)にリクエストされ、「老子」上下2編を著したと伝えられます。以下は老子初心者の友人とのやり取りの一節です。今回は3回シリーズ。
「老子」を読みはじめました
「老子」はまだ読み始めたばかりですが、とりあえず、今の老子に対する思いとか
を書いてみると・・・。
老子の書いたものは、その解釈も難しいようですね。
老子は、掴みどころのない人、という感じもします。でも、自由な感じもするけど、
なんか厳しさもある感じがする・・・。謎もあるけど、できるだけ読み解いていきた
いなあ。水とか、風のイメージもある・・・。
シャカなどのように、その弟子を作っていないというところが、老子はその言ってい
ることを行っている、という感じがしますね。老子のそういう部分を知ってみると、
なにか弟子とか組織とかを作ったりしていることが、その教えとはかけ離れている
ことをしているように、思えないでもないですね。執着について否定していながら、
自分が執着している・・・というような。
それから、もしかして老子はわざと掴みどころのないような書き方をしているのだろ
うか?(とらえどころがない、とらえられないもの・・・という意味で)それとも事
実を書けば、こうなるという、老子にとって最もわだかまりのない、文章なのだろ
うか・・・ということも、考えてしまった次第です。
以上、今日のメールですが、「老子」についての質問などは、この次はもうちょっと
具体的なことが書けたらいいなあ、と思います。(05.06.17)
聖人としての老子の特質
(レス)千里の行も足下より始まる・・・・と老子は書いています。
意味はあなたの書いた「千里の道も一歩から」と同じです。僕が考える、老子が他
の聖人と呼ばれる人たち(例えば、キリスト、ソクラテス、釈迦、孔子)と大きく違
う点が2つあります。
*自分で、自分の考えを責任を持って書き綴っている。もっとも、釈迦、
孔子などには自分で書いた文書はあるようです。孔子は「易経」の注釈
とか、春秋(歴史書)、詩経の編纂などもしているようだし、釈迦の書とさ
れる岩波文庫も読んだことがあります。キリスト、ソクラテスにはないよう
ですね。
**弟子を持たなかった、すなわち教団を組織しなかった。
あくまで、老子は学者という立場を取ったわけですね。
あなたの言うように、特に**が重要だと僕も思います。老子は、あくまで読者と1
対1で向かい合うというスタンスを取り、世俗的な権力と直結する教団の恐ろしさを
知っていたのだと、思えてなりません。それにも相俟って、弟子が、師匠がなにも
書き残していないのをいいことに、自分に都合のいい言説を展開してしまう、という
現象も起きます。日蓮の場合など、自分で書き残していても、弟子たちが派閥争いを
したわけで・・・・やっぱり教団は駄目だね。どんなに神聖ぶっても、しょせんは人
間の集団なのだから。
老子を、「まるで龍のようで、掴みどころがない」と評したのは、ほかならぬ孔子
である、という伝説が史記に載っています。この2人、会ったことがある、という設
定になっています。だから、あなたが老子を「掴みどころがない」と感じても、まっ
たく不思議はないのですよん。
あとは、あなたからのもっと具体的な感想とか疑問があったときに、僕も考え、答
えていくようにします。ただ、僕には、老子はけっしてぼかして書いてはおらず、あ
る意味とても具体的に、明確に、その論を展開していると思われます。(05.06.17)