老子問答 その2
*老子問答 その2
***老子は古代中国の哲学者。図書館の司書をしていたが、当時の王朝が衰微したのを感じ、西方に向かうとき、関所の役人・インキ(正確な字が変換できない)にリクエストされ、「老子」上下2編を著したと伝えられます。以下は老子初心者の友人との
やり取りの一節です。今回は3回シリーズ。
老子の思想についての素朴な疑問
そうですかあ、老子は、「千里の行も足下より始まる」と言ったのですか。「千里の
行も足下より始まる」と言うのと、「千里の道も一歩から」と言うのとでは、同じ意
味と言っても、後者は何か格言ぽいし、前方、縦の真っ直ぐさだけを感じるけど、
前者の方は360度の広がりを感じます。これは、なんなのでしょうね・・・。前後
左右、方向の制限がないといったような__。
さてさて、またしても、具体的な部分を指しての質問、疑問ではなくなってしまった
感じなのですが、それに、こういう質問は全部本を読んだ後にした方がいいのか
なとか思うのですが(以後読んでいって、書かれてあったりしてわかってくるのか
もしれないので)、私の素朴な疑問、感想ですー。
1)どうして、老子は「それ」を「道」という言葉で表現するのであろうか。
2)「道徳」というのは、私たちが授業で学んできた「道徳」とは別物なのでしょう
か。ぜんぜん違う感じがしますが、元は老子の道徳からきているのでしょうか?
3)いつか森下さんは老子の思想は「怒り」から始まっていると話の中で言われたように思うのだけど、どうしてそう思うのか。また、何に対する怒りからか。政治に対
する怒りとか?社会のおかしさ?
と、疑問を書きましたが、?など、そんなこと言われても、それは老子に聞かなきゃ
わからないよ、というようなこと聞いちゃったかもしれませんねー。
あー、まー、素朴な疑問ということで、森下さんが答えなければいけないということで
もないと思うので、こういう疑問もあるのか、と思っていただければいいかな、と思
っておりますです。
>ただ、僕には、老子はけっしてぼかして書いてはおらず、ある意味とても具体的
に、明確に、その論を展開していると思われます。
なるほどねえ、そこにはまた、読む人の人生経験とか、それまで考えたりしてきた
ことなども、理解、読解力には大きく影響するようにも思います。
また、こう思いたい、というものがあれば、読解力の邪魔になりますね。
これは、森下さんが言っていた、頭が固ければわからない、といったことでもあるの
かもしれませんね。老子の文、思想は、それを砕くような内容なのかもしれない
なと思います。(05.06.18)
3つの質問への回答
(レス) またまたあ、のっけから難しいことを聞くのね。
「千里の行も足下より始まる」の章句は64章に出てきます。あなたの言うように、
「千里の道も一歩から」より時間的、空間的な広がりを確かに感じますね。あなたの
言語センスに拍手。ぱちぱち。
質問1)について:これに答えるには、難解だと僕が言った第1章を抜かせないで
しょう。老子の出だし:「道の道う(いう)可(べ)きは、常の道に非ず。」をどう
解釈するかに掛かっているでしょう。宗教活動にのめりこみやすい人なら、この言葉
を文字通りに受け取り、オウム真理教信者のように超常現象の実在を確信するでしょ
うね。老子もそのような現象を体験した人かも知れません(それらしい記述も確かに
あります)が、そのような体験を一切抜きにしても、老子の理解になんら支障はな
い、というのが僕の見解です。唐の時代の禅僧・趙州(じょうしゅう)という傑僧の
問答に、以下のようなものがあります。
弟子:道とはどんなものですか?
趙州:道か、道なら都にまっすぐだ。
(「禅ー―現代に生きるもの」:紀野一義 より)
弟子がオウム真理教的な道を問うているのに対し、趙州はありふれた、実在の道につ
いて注意を呼び掛けているのです。禅宗は、仏教と老荘思想の「あいのこ」のような
性質を持ちますので、禅の理解は老子の理解を助けると思います。では、老子の冒頭
の言葉はどう捉えればいいのか?・・・・・老子の言葉には必ず裏がある、と僕は言
いましたが、すると、「道の道う可きは、常の道なり。」という文章も、当然成り立
つし、このような解釈なら、趙州の問答と矛盾しません。なああんだあ、詰まらない
!!との声も聞こえて来そうですが、老子の文章は反語を多用するかなりひねくれた
ものなのです。そして、老子冒頭の一文は、読者に永遠の問い掛けを発し続けるのだ
と思います。この原文にも、ちゃんとした意味があるのです。 質問1)は、老子全体の理解に関わるものなので、この問への回答は未完です。なお、老子が「道」という言葉で宇宙の根本原理を表わしているのは事実です。
それにしても、なんて抽象的かつ具体的な言葉でしょう。一筋縄ではいかないのは、あなたの娘さんとおんな
じですね。この質問1)については、ここで書いたことがちゃんと回答になっているのか、自信はありませんが。
質問2) について:「老子」の前半を「道経」、後半を「徳経」と言います。あわ
せて「老子道徳経」。現在の「道徳」という言葉は、間違えなく、「老子」から来てい
ると断言できます。でも、ここで注意すべきは、意味内容は相当違うことです。いつ
か、「徳」という字の旧字「紱」について書いたことを覚えていますか?この字は
「素直な心で行く」という字解でしたね。そのようにして道を行くと、何か手に出来
る・・・すなわち「得」であり、「徳」と「得」は同義です。普通に言う「道徳」が
いかにも説教臭いのに対し、老子の「道徳」はむしろ経済学とか物理学のような客観
的な学説とも言えるものです。ちなみに、訳注者の小川環樹氏の実兄・ノーベル物理
学賞受賞者の湯川秀樹氏の愛読書は「老子」でした。
質問3)について:老子を理解するには、2つの視点(座標軸)が必要です。一つ
は、「怒りと哀しみ」、もう一つは「政治と軍事」です。このいずれかが欠けても、
老子は理解できないでしょう。53章には、あたかも現在の北朝鮮の現状を目の前で
見ているのか、と思えるほどの、政治と為政者に対する怒りが読み取れます。また、
69章では、戦争と哀しみの関わりが述べられています。そして、老子の中でも特異
な36章・・・・「戦争必勝法」がまるで「数学の定理」のように語られます。この
36章を書いていたときの老子はなにを思っていたのでしょうか。そこには「怒りと
哀しみ」を込めて、いや、むしろ隠して、驚くべき学説を淡々と述べる老子が見てと
れるのです。(05.06.18)
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