虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

仏教の上下観(仏教シリーズ その1)

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歴史のなかのカースト―近代インドの〈自画像〉 (世界歴史選書)

歴史のなかのカースト―近代インドの〈自画像〉 (世界歴史選書)


*仏教の上下観(仏教シリーズ その1)
     (ある人とのメール交換の一幕です)




・・・別の機会に本当の「残酷さ」かあ__。

う〜ん、怖いなあー。なるほどなあ。なんか解るような気がする。それが残酷な
ことだとも意識せずに行われたりもするのでしょうね。
宗教の話も「輪廻」という概念についてはほんとうによく考えていかないと、いろ
んな面で問題を作りますね、これは。どうせ死んでもまた生まれ変わるんでしょ、
みたいな命を軽んじる傾向にも・・・。
それになんでそんなに躍起になって解脱したがるの?という風にも思います。
輪廻を解脱できるだとかなんだとか。人生をうらんでいるみたいじゃないですか。
人生を悪としているみたいじゃないですか。そりゃあ私だって苦しいだけの人生
なんて送りたくないけど、幼児を見ていたら、わくわくしながらいろんな人間にな
ってごっこ遊びなどをしているのがわかります。何回も生まれ変わっていろんな
人間になってみることを、楽しいとかは思わないのかな、と思ったこともあります。
「解脱」することを正しいことのように言うけれど、解脱したがっている自分はい
ったいどういう人間なのかを知ることをおろそかにしていないかなと思います。
解脱の考えは、苦を妄想か何かのように言っているのに、自分たちが人生を苦
だとらえていることにはならないかなあ、とも思います。
執着するなといいながら、そういう人たちが解脱することに執着しているのはな
ぜだ?

「出来合いでない」自分・・・。森下さんはもうそのころからそういうことを考えてい
たのですね。私は出来合いの世界にどっぷりつかっているところがありました。
出来合いの世界であるということに気づいていなかった、ということですね。
出来合いの世界だと気づいていない、そういう人がほとんど、というような気も
します。

ところで、一匹残っていた子猫も死んでしまいました。四匹産声をあげていた
のがこの間のことであったのに。元気がなかったのだけど(ミルクをあげてもちょ
っと口をつけるぐらいしか飲まなかった)、父は、傷があったが親猫がかみ殺した
のかもしれない、と言っていました。

            **********
仏教的物の考え方で、老子の思想と大きく異なり、僕が好きでないものに、「上
下」観があります。この場合、広くインド的物の考え方としてもいいのですが・・・
明るいチベット医学」(大工原彌太郎)という本に書かれていましたが、上位のカーストの人ほど、
食べる食材が減るという話があります。どういうことかと言うと、たとえば、土の中
で出来るイモ類などは、穢れた土と同類だから、カーストの低い人は食べても、カー
ストの高い人は食べないことによって、カーストの低い人と差別化できる・・・その
ように、食べられるものが減っていき、高いカーストの人ほど短命だと言うのです。
お笑いですね。このお話しで注意すべきは、「土=穢れ=低い」という認識があるこ
とです。おなじような話として、蓮は、穢れた泥の中で育つけれども、その花は、空
中で高貴な花を咲かせる・・・といったものがあります。だから、如来の台座は蓮に
なっているのです。仏教はさすがにストレートに上=高貴、下=汚辱といったことは
言いません。六道輪廻の最上位の天も、流転の一つに過ぎず、釈迦はその輪廻の流転 から解放されたものとされますよね。でも、仏教の論理構成にも、これまで述べた
「上下」観がはっきり反映しているように思われます。ランクつけは、仏教の得意技
です。例えば、悟りの程度に応じて、縁覚(えんがく)とか声聞(しょうもん)とか
の分類をするのが仏教で、ちゃんと、上位=高貴という意識をもっています。例は悪
いが、仏教系を標榜していた「オウム真理教」では、このような意識が戯画的に溢れ
ていたようですねえ。彼らの言う「解脱」は、単に信者自身、また信者個人の救済に
過ぎず、麻原の息子への教育で顕著だったのは、信者に叫んだ言葉――「触るな、カ
ルマが移る!!」という言葉に止めを差します。そして目指すのは、より高いところ
・・・・
 一方、老子では、低いところで安住する水を「道に近い」とたたえるところが、既
に仏教の論理とは違います。「老子」第2章でも、高低の区別を、単に相対的なものとし、「高い」から「高貴」という論理は立てません。



今日のひと言:老子と釈迦は、まったく別物の存在でーーーす。^^