*福沢諭吉を嗤う(わらう)
(今日は、一気に3ブログを載せます。だから明日、明後日は新しい記述は載せません。)
司馬遼太郎の小説「花神」のなかで、福沢諭吉と大村益次郎の喧嘩が書かれている。福沢諭吉いわく、「なんでお前は国事(この場合特に軍事)なんてくだらないことに血道をあげているのか、と。」これを聞いた大村益次郎は臆病な福沢諭吉が逃げ出すほど激怒した、とある。その後大村益次郎が上野戦争を戦っている時、福沢諭吉は彼の私塾(後の慶応義塾大学)で講義していたが、大砲の音を聞き動揺する塾生に「あんなことは気にせずに学問にはげめ」と言ったという有名な話がある。私も、小学生のとき、国語の教科書で目にした覚えがある。普通これは美談として取り上げられるが、果たしてそうだろうか?
つまるところ、勝ったほうに付けばよいという日和見的な態度に過ぎぬのではないか。そして自分の栄達のみを図るという態度と読み取ることもできよう。大村益次郎はそんな福沢諭吉の性根に気づいたからこそ激怒したのだ、と私は考察する。戦場に出る根性もないのだ。
思えば、バブル経済の隆盛と破綻は福沢諭吉を描いた一万円札とともにあった。リゾートホテル王と呼ばれた高橋某とか、英国スチュワーデス殺しの織原某は、いずれも慶応義塾大学出身である。確かに、バブル時代以降、慶応大学出身の犯罪者を目にする機会が多い。
建学者が前述のような考え方の持ち主なのだから、ひとの褌で相撲を取ろうという人物を輩出するのも当然であろう。いまの日本政府の要人を見ても、小泉純一郎、塩川正十郎、竹中平蔵など、慶応義塾大学出身か現教授で固められており、その無能さ、無責任さは、目を蔽うものがある。新一万円札も相変わらず福沢諭吉が使われるとのことだが、福沢諭吉を使っている限り、日本はバブル後遺症からは抜けられないであろう。そもそも、「慶応」と大学名をつけること自体、僭越である。あのころの俺(福沢諭吉)はかっこよかったなあ、と自己満足しているに過ぎない。バカだ、この男。ハッハッハ。――!!
――笑い事ではない!大村益次郎と福沢諭吉は、緒方洪庵の適塾の先輩、後輩の間柄である。もちろん、福沢諭吉が後輩である。福沢諭吉は、この「学閥」を巧みに利用し、大村益次郎の功績をあたかも自分の手柄のように吹聴したのだ。自分は、なーーんにもしなかったくせに。だから、この男(福沢諭吉)の肖像の描かれた一万円札は、「紙くず」でしかないのだ。
* *これは、数年前に書いた文章です。
今日のひと言:福沢諭吉には、こんな逸話もある。函館戦争に敗れたあ
と、明治政府に仕えた榎本武揚(えのもと・たけあき)を、「武士の風上にも置けない」とか言ってなじったというのである。(NHK「その時歴史が動いた」)武士を否定していたのではないのか、福沢諭吉は?福沢諭吉とは「何者」なんだろうか?「仮面の下には」何がある?
福沢諭吉の最高傑作が小泉純一郎である。いみじくも、大村益次郎が設立に関与した靖国神社に、どのツラ下げてお参りできるのか?――ああ、「仮面」をつけてか。納得。
*生命保険会社のコマーシャルから始まる話朝から夕方まで、外資系生保会社のコマーシャルの花盛りですね。特に「アリコジャパン」が目立ちます。そのコマーシャルの特徴は、「具体的」であるということ。具体的な保険料、具体的なサービス内容を明快に呈示しています。それに、放送時間が長く、繰り返し放送されます。
一方、日本の生保会社のコマーシャルは、放送時間が短くて具体的でなく、情緒に訴えるタイプのものが大多数です。唯一、オリックス生命のものが具体的ですねえ。
こんなざまでは、日本の生保は外資系生保に太刀打ちできません!日本の生保は程なく軒並み「倒産」するでしょう。そして日本の資産は、外国で活用されるでしょう。日本はますます行き詰まります。金融ビッグバンとか規制緩和とかはこういうことだったのですね。誰のための構造改革なのでしょうか?ねえ、答えてよ、小泉純一郎ちゃん!
私個人は、生命保険とか損害保険には否定的でして、例えば自動車はダース・ベイダー並の「悪の存在」だと考えていますから、免許証は持っていても自動車には乗りません。日本人で唯一のノーベル経済学賞の候補である宇沢弘文・東大名誉教授(計量経済学)の著作に「自動車の社会的費用」(岩波新書)がありますが、自動車の垂れ流す社会的費用、あるいは外部不経済(問題を起こした当事者がなんの責任も取らず、環境とかに悪影響が出たら、例えばいわゆる公的資金で穴埋めするような事態のことです。いま旬の「耐震強度偽装問題」でも、そのような解決を公明党の北側一雄国土交通大臣が示唆しています。)は、自動車税として一台あたり数百万円を課さないとリカバーできないとのことですよ。それを実行したら、自動車を所有できる人は限定され、大気汚染と交通事故は激減するでしょうね。もっとも、そうなったら、自動車を飯の種にしている方々は困るでしょうね。トヨタ倒産の危機!まあ、この程度の会社、どうでもいいけどね。石油(およびそれから合成されるエネルギー。バイオマスも含みます。)がないと走れない商品は、欠陥商品だからです。ハイブリッド車なんて、子供だましです。自転車だったら、まともな商品です。(ちなみに、トヨタ、松下電器など6社は、税制面で、特別に優遇されています。)
日本人にノーベル経済学賞受賞者がいないのは、独創性も思想もない学者がほとんどだからです。竹中平蔵氏の場合も状況は同じで、しょせん、ハイエクという2流の経済学者の学説を鵜呑みにしている程度の立派な学識の人です。(このハイエク、私には廃屋(ハイオク)と聞こえて仕方ないんですが。)
そこへ行くと、東京大学理学部数学科を出た宇沢弘文氏は、数理能力が卓越しており、文科系出身でろくに数理能力のない凡百の経済学者とは格が違います。宇沢氏は、最近は「社会的共通資本」という概念を創案しています。どこまでも独創的なのです。
理科系出身の経済学者は極めて優秀な方が多いです。野口悠紀雄氏(東京大学工学部応用物理学科出身)、室田武氏(京都大学理学部物理学科出身)などです。
私は提案します、経済学部は、理科系の学部にすることを。そうすれば、ノーベル経済学賞も夢じゃない!
今日のひと言:日本生命のコマーシャル「保険には人間の血が通っています」というフレーズ、「人間の血が通っている」なら、それは「人間」以外にありません。そうすると、「保険」とは「人間(ホモ・サピエンス)」だということになりますね。
*自由民主党から“自由”を奪う
♪籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます
子 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて
吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 吾こそば 告らめ 家をも名をも
これは、雄略天皇がお詠みになった御製(ぎょせい:天皇がお詠みになった和歌)です。この歌は有名な恋の歌でもあります。
「僕がまず名乗るから、君も名乗ってよ。」とかわいい女性に言い寄る歌なのです。「名乗る」ことは、そのまま、相手の所有物に自分がなってもいい、という決心を必要としました、あの古代。 うーーん、厳しいなあ。
さて、竹中平蔵さんがその政策の指針とする「新自由主義」の経済学者・フリードリッヒ・アオグスト・フォン・ハイエク:Friedrich August von
Hayek(1899−1992)という人は「自由」という言葉がお好きなようです。その著作には大抵「自由」という言葉が使われます。キーワードですね。
そこでハイエクHayekさんの母国語・ドイツ語で「自由」は何と言うかというと、
die Freiheit です。ただ、この言葉、いわくつきで、積極的な良い意味内容を含みません。この言葉から引き出せる派生語に
die Freiheitsstrafe という言葉があります。その意味は――「自由刑」。ええええーーー!!!!(この自由刑については、広辞苑ででもお調べください。「逮捕する」ことが自由刑につながるようです。)
「自由」とは、刑罰に成りえるのですね。英語のfreedomもほぼ同じ語源で、「フリー」という言葉も同様、いい意味はありません。せいぜい、「逮捕されていない」状態を指すのです。いつでも逮捕できるように泳がせる、というなにやら国家権力による暴力の匂いがプンプンします。そうすると、「フリーター」(Freeter?)という言葉も同様な意味を含みます。フリーターの皆さん、あなたがたは、何と、「逮捕されていない」という「刑罰を受けている」のです。あなたは、何か悪いことをしましたか?
さて、ハイエクHayekさん、なかなか面白い題名の本を書いています。
「隷属への道――全体主義と自由」(東京創元社)この題名を普通に読むと、「全体主義」と「自由」は対立概念のように思われるでしょうが、別の見方もあります。
「隷属」とは「奴隷にする(される)」ことですが、そこへ至る道には2つあり、その一つが「全体主義」、もう一つが「自由」だ、とね。そうすると、道は違ってもゴールは「隷属」ですから、機能として、「全体主義」と「自由」は同等なものである、と結論できます。(注:この論理展開の理解には、「フォン・ドマルスの原理」が参考になります。2005年春の朝日新聞コラム:柳澤桂子「大地の底から・一神教を超えて」(だったと思いますが)に出てきます。)
そうすると、「自由・民主党」=「全体主義・民主党」と言い換えられますね。わーー、すごい、自分でファシストであると「名乗って」いますね。
♪籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます
子 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて
吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 吾こそば 告らめ 家をも名をも
これは、雄略天皇がお詠みになった御製(ぎょせい:天皇がお詠みになった和歌)です。この歌は有名な恋の歌でもあります。
「僕がまず名乗るから、君も名乗ってよ。」とかわいい女性に言い寄る歌なのです。「名乗る」ことは、そのまま、相手の所有物に自分がなってもいい、という決心を必要としました、あの古代。 やっぱり厳しいなあ。
さて、これは大変な事態になりました。「全体主義」の看板は下ろさなきゃあ、そんなわけで、「自由」=「全体主義」を自ら落とし、「自由民主党(自民党)」は「民主党」に名前を変えることになったとさ。めでたし、めでたし。ハイエクHayekさんの語学能力にも拍手ですね。題名だけで、本の内容が見抜かれるようにわざわざなさったわけです。
今日のひと言:渡部昇一さんもハイエクHayekがお好きなようで、「ハイエクの精神を知らずして ハイエクを語るなかれ」といった題名の本を書かれています。でも、この題名、装飾過多です。「コップの精神を知らずして コップを語るなかれ」という本だって書けますね。「Xの精神を知らずして Xを語るなかれ」のXにはなんでも代入できますから、少なくとも、前段は不要ですね。正しい題名は――「ハイエクを語るなかれ」うわーー!!
これもすごい。言論統制だよ、これって。ファシズムに一直線だあ!!!!!!!!
さて、今回は本文の追加があります。「隷属への道――全体主義と自由」のドイツ語での原題を念のため調べたところ「Der Weg zur Knechtschaft」で「隷属への道」でした。副題は日本人の翻訳者が付け加えたもののようです。わあああ、これまでの論理が破綻?
――いえいえ、どういたしまして。日本では、これまでの議論は有効です。でも、残念だなあ、ハイエクHayekさんの語学能力がちょっと落ちることが解って。次なら、手放しで賛辞が送れるように、がんばって精読します。(めんどくさいけど。)ちなみにハイエクHayekさんのほかの著作は
「Die Verfassung der Freiheit」
「Recht ,Gesetz und Freiheit」
などです。やっぱりFreiheit(自由)がお好きなようです。でも、「隷属(Knechtschaft)」という言葉は確かにお使いになっていらっしゃるので、新自由主義を語るには「隷属」は不可欠の言葉ですね。やっぱりイメージ悪いや。この2冊については、原語による題名を示すに止めます。
さて、竹中平蔵さんに戻りますが、彼は一橋大学卒業で、慶応義塾大学の総合政策学部の教授でした。今はなんだか政治家らしいですが。まあ、ここがハイエクHayekさんの日本総本山なんですね。竹中平蔵さんを招聘したのは、タカ派の論客として知られる慶応義塾大学名誉教授の加藤寛さん。この人はある意味有名な「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者です。「フランス語では数字が数えられない」という名言で一介の作家から有名人になった石原慎太郎都知事(一橋大学卒業)もおなじく賛同者です。一橋大学の教務課に問い合わせたところ、この大学ではだいたい10カ国くらいの語学を学べます。あれだけの名言を残せる人ですから、よほどフランス語にお詳しいのですね。フランス語でアナトール・フランス:Anatole Franceの小説を原書で読めるようになるまで、学習開始から1ヶ月も掛かった凡人の森下としては、彼の爪の垢でも煎じて飲ませてもらいたいところです。
ハイエクHayekさんの周りには、多士済々の天才的なお方が集うのですね。私のような凡人にはその資格がないようです。
石原慎太郎へのメッセージ:あなたは、Galoisというフランス語が読めますか?この人は、史上最高の数学者にして、「5次以上の代数方程式には、解の公式は存在しない」という大定理を、群論というかつてどんな数学者も考えつかなかった方法で証明した人です。あなたでしょう、数が数えられないのは。あなたは、文化の大国フランスを中傷したのです。どう、落とし前をつけるお積りか?