虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

田園の憂鬱(佐藤春夫)を読んだ

 私が中学生のころ、「旺文社文庫:おうぶんしゃぶんこ」という副教材を学校が推薦していて、この文庫は注釈が適切な場所に多くついているので、副教材として申し分ないようでした。(現在は見かけませんが)


 そこで、当時中学2年生だった私は4冊の文庫を買いました。芥川龍之介エドガー・アラン・ポー小説集、日はまた昇るヘミングウェイ)、田園の憂鬱佐藤春夫)でした。前2つは、短編が好みだった私にはベスト・フィットでしたが、後2つは、長いこともあり、あまり興味も湧きませんでしたので、本も散逸し、これらの作品は忘れていました。


 でも、「田園の憂鬱」の副題「病める薔薇(そうび:バラのこと)」にはいまになってなにか惹かれるものがあったので、図書館から分厚い本を借りてきて、読んでみました。「現代日本文学大系42 佐藤春夫集」(筑摩書房)。


 読了した感想は、「この作品は、中学生では理解不可能であろう」ということでした。大人、しかも人生に半ば敗れた男性の魂の記録といってもいいでしょうから。


 この小説の中で、主人公は「彼」と呼ばれ、客観化されていますが、その内容は「私」と主人公を呼ぶ「私小説」であるか、長い散文詩と捉えるのが良いといえるでしょう。この作品に、どれだけ作者の佐藤春夫が投影されているかは解りませんが。


 現実主義者の妻、イヌ2頭、ネコ1頭を引きつれ、東京の喧騒をのがれて近郊の田舎に越してきた彼、その家は前代の持ち主が、いろいろな庭木を植えてあり、廃園状態でした。
木々が様々勝手に枝を伸ばし、バラの木々が光を遮られ、息も絶え絶えに立っていました。「薔薇ならば花開かん」(バラなら、花を咲かせるべき)というゲエテゲーテ)の言葉を頼りに、彼は薔薇に光が当たるように植木屋を呼んで庭を整理します。自身でも、薔薇に目をかけて育てます。


 この田舎暮らしにおいて、彼は色々神経質そうな行動をします。紙のシェードのランプにやってきたウマオイ(昆虫)に目をかけたかと思うと、蛾には恐怖に似た感情を持ちます・・・なんともノイローゼらしい記述です。まあ、もっとも、だからこそ田舎に越してきたのですが・・・


 そんな毎日を過ごしているうち、庭の薔薇に花がつきます。妻に採ってきてくれ、と頼むと、彼女はいくつもの薔薇の花を採ってきてしまいます。なにもこんなに採ってきてくれなくても良いのに、と花を見ると――花には虫(おそらくはアブラムシ)がびっしりとついていた「病める薔薇」だったのです。彼は「おお、薔薇、汝病めり!」(おお、バラ、お前は病気だ)と何度も連呼して、錯乱状態になりながら悲嘆にくれる・・・という結末になります。



この錯乱状態に行き着くまでの「彼」の心理変化が読み応えあります。植物学的にいえば、それまで薔薇の木々は、他の植物に光を奪われて抑圧状態だったので、急に光にあたって元気になりすぎ、アブラムシから見れば「美味しい」樹液が吸い取れるようになったということでしょうね。「彼」にそのような知識があれば錯乱状態に陥ることもなかったか、と思うのです。


今日のひと言: この「田園の憂鬱」は大正7年9月に発表された作品。同時代の芥川龍之介たちはどう読んだでしょうね。これまでも触れたとおり、「田園の憂鬱」は大人になってから読む作品だと思います。しかも、解る人にしか解らないでしょう。近代人の病める心理を理解できる人にしか。なお、佐藤春夫の才能は、芥川龍之介を凌ぐという評価もあります。芥川がその著「侏儒の言葉」でけなした「徒然草:つれづれぐさ」を、彼は見事な現代語訳にしています。「現代語訳 徒然草」(河出書房新社



今日の二句


キム・ジョンイルの辞世の句


旅に病んで
夢は枯野を
かけめぐる


――金正日キム・ジョンイル)の訃報に接し。なんでも視察旅行中に死んだとのことなので、松尾芭蕉の句を借りてきました。「枯野」とは彼の統治の間に疲弊した北朝鮮のことを意味します。それにしてもなんて見事な辞世の句。
        (2011.12.19)



ああ痛し
ユンボはむしる
松の木を

旧家の解体工事中、工作機械のユンボによって攻められる松を見て
       (2011.12.19)

田園の憂鬱 (新潮文庫)

田園の憂鬱 (新潮文庫)

現代語訳・徒然草 (河出文庫)

現代語訳・徒然草 (河出文庫)