「同じ宗教を信じる者同士なら仲良くしても、異教徒にも寛容だった」宗教は、これまであったでしょうか。例えばキリスト教の場合、「愛の宗教」であると、一般には言われますが、異教徒に対する態度は苛烈を極めました。例えば、アニミズムを宗教としていたと思われるネイティヴ・アメリカン(インディアン)、新大陸に上陸して食糧の調達もおぼつかなかったアングロ・サクソンに食糧を分け与えてもてなしましたが、アングロ・サクソンの連中は、この恵みをインディアンにではなく、「(キリスト教の神に)感謝し」、これを記念して「サンクスギビング・デイ:Thanksgiving Day 」とし、インディアンたちを追い詰め、殺し、僻地に追いやりました。・・・これで「愛の宗教」と呼べるでしょうか?「裏切り」であっても、お世辞にも「愛」の宗教の仕業とは思えないのです。よほど、迫害されたインディアンのほうが「愛」を持っていたのではないか、と思います。
(また、1930年代、アメリカ合衆国・アラバマ州のタスキギーで、梅毒にかかった黒人たちに、ろくな治療もせずに、泳がせ、病気の広がり具合を調査したという「タスキギー実験」も、アングロ・サクソンの連中は行なっています。インディアンといい、黒人といい、「異民族」に冷たいのが彼らアングロ・サクソンだと思います。この実験の場合、黒人がキリスト教を信じていても行なわれたのでしょう。ですから、これは宗教とは別の、人種差別の例ですが、「自分と異質なものは排除する」という意味で、レッテル貼りをしているのは、宗教と同じです。「この宗教を信じるものはハルマゲドンから救われる」・・・といったキリスト教の擬似宗教は限りなく存在しますね。「信じる者」と「信じない者」と二分してレッテル貼りするのです。)
なお、憎しみから戦争に至る要因は主として3つあり、1)宗教的(精神的)要因、2)民族的(肉体的)要因、3)経済的(資源的)要因が挙げられると思います。実際に戦争が始まる要因として、以上の3つが絡み合っているか、と思います。これについては、いつかまた稿を改めて書こうと思います。(なお、1969年に、サッカーの判定がもとで、ホンジュラスとエルサルバドルの間で交わされた「サッカー戦争」などは、一見以上の記述から外れるような気もしますが、この戦争も国境問題、農民の移民問題が根底にあり、この3つの類型に入ると思います。)
参考過去ログ
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20061211 :高山正之の視点
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20061215 :中国人も侵略する
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20061227 :ラム酒とインディアン
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20061231 :旧約聖書の問題記述
(以上、「民族シリーズ」の記述より)
キリスト教徒の凶暴さは「十字軍」にも遺憾なく発揮されています。彼らから見れば、聖地エルサレム奪還の「聖戦」でしたでしょうが、対するイスラム教徒から見れば、侵略・略奪であり、イスラム教徒も「聖戦(ジハード)」と、この戦いに名づけ、おおいに戦ったというわけで、今でもイスラム教原理主義者たちは、欧米文明との果てしない抗争を繰り広げているのです。アルカイダ、タリバン・・・彼らの中には、「十字軍」以来のどろどろした感情がわだかまっているのです。(むしろ、遺伝子に組み込まれていると思えるほどの感情が。)
異教徒に寛大だったという点では、キリスト教よりイスラム教のほうがまだしもだったように思います。イスラムの帝国が、異民族を併合した際、「人頭税」を払えば改宗を免除する、という統治法であったという記憶があります。
さて、キリスト教の教義書は、第一義的に「新約聖書」ですが、この書物の中で、イエス・キリストは、宗教上の「愛」を物語っています。それはそれで普遍性のある言説であったのでしょう、キリスト教徒の仲間うちでは。ところがそれが異教徒との関係においては、この「愛」は発揮されず、異分子を排除、はなはだしくは抹殺する「憎しみ」にと変貌するのです。この二面性にはスゴイものがあります。
私は、すべての宗教は、その教義がいかに素晴らしく・普遍的であっても、それは信者たちの間でのみ成り立つ教義であって、信者でない者には適用されない、あたかも「レッテル貼り」のような物だと思います。このレッテルは、当該宗教の信者にも貼られますし、信者でない者にも貼り付けられ、お互いに敵意を抱かせる物だと言えましょう。
その意味で、フランス革命が参考になります。フランス革命を先導した人々は、これまでのカトリックの信仰を捨て、なんと「理性を崇拝する」というはなはだ奇妙な宗教を呈示したのです。理性を突き詰めれば、それは無神論に行き着くのでしょうが、革命当時のフランス人は、ほんとにくそまじめにこの宗教?を実践しようとしていたのです。フランス革命が起こした狂気ですね。さらに言えば、宗教=狂気ですね。
今日のひと言:フランス革命の当時、大化学者のラボアジエ(1743−1794)
がギロチンの露と消えています。それは彼が収税吏(しゅうぜいり:税金徴収の役人)をやっていて(そのお金をちょろまかした?)という理由だけが根拠でした。彼はそれまでの錬金術レベルの化学を近代化学にまで引き上げたという意味で「理性」の見本のような人でした。
当時の学者は「あの頭を切り落とすのは造作もないが、あの頭脳を作るには数百年かかる」と嘆息したそうです。革命家は、ラボアジエに異分子(異教徒)とのレッテルを貼ったのでしょうね。
追記:2010年4月22日の午後5時代のフジテレビの「スーパーニュース」で、福岡県の「新健康協会」の信者の夫婦が、こどもの病気に「手かざし」による「浄霊」しか手当てをしなくて、この子を死に至らしめ、警察に逮捕されたというニュースが踊っていました。「信じるものは救われない」良い事例かと思います。手をかざしただけで病気が治ればスゴイことですが、そのような奇跡はおこりませんでした。私は以前、同じように手かざしを教義とする「M光」のオバサンと会話したことがありますが、「私は、手かざしさえあればほかになんの治療法も必要としない」と言っていました。これも、レッテル貼りのひとつでしょうね。他の人が編み出した治療法は無効であるとレッテル貼りしていますから。もちろん、このオバサンに対し、私もレッテル貼りをしたのは当然です。「傲慢かつバカだな」と。
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