虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

***出版案内***

この度、以前に書きあげていた作品「東大えりいとの生涯学習論」を「eブックランド」から電子書籍という形で出版しました。ここに、内容の一部を公開し、あわせて購読の手続きを記してみようと思います。(本編は縦書きです)
1) eブックランドのホームページを開く
  http://www.e-bookland.net/
2) keyringPDF(キーリングPDF)をダウンロードする(画面下、無料)
3) 登竜門(ダウンロード無料)広場(ダウンロード有料)のアイコンを押す。(なお、私の作品は現在登竜門にあり、無料でダウンロードできます。)アイコンは右上にあります。(そこで私のPDF仕様の本を選び)
4) ダウンロードの際、アクセスコード「370135」を押す
5) ファイルはバックアップ付きで、「マイドキュメント」の「my digital edition」に保存される(名称はメーカーごとに違うかもしれません。)
6) eブックランドの場合、keyringPDFだけでなく、BBeB(リブリエ)というソニーが開発したソフトも使っていますが、ソニーに元気がないため、順次keyringPDFに切り替えていくそうです。

書誌情報

嫌な現実から飛翔できる学問・数学。著者は数学者を目指して東大に進むが、あまりに酷い初授業に落胆し、フランス文学科を目指すも、落ち込んで工学部・都市工学科衛生コースに進む。専門は「水」。当時は「汚いもの(うんこ、おしっこ)」を扱うので人気がなかった所である。そして、粗い現実と闘いながら、「えりいと」とは何かと考えて綴った記録であり、教育書である。著者は塾講師、家庭教師の経験も豊富なのでなにがしかの有益な情報を、読者は得られるであろう。



以下、サンプル代わりにご覧ください。過去ログにも収録した文章です。

 3章 (1)  DO NOTHING   都市工学の核心
         理不尽な仕事

 私は結構傲慢な人で、恩師のことを「先生」とは殆ど呼びません。でも、間違いなく「先生」と呼べる恩師を持っています。この項では、その人の話を書こうと思います。
 自主講座に出入りしていた頃、宇井純氏(都市工学科助手)にある仕事を課せられました。それは、自主講座とは直接には関係のないグループのために、日曜日、都市工学科の教室を借りてあげることでした。一読、簡単なことのように見えますが、さにあらず、大変な仕事なのです。まず、宇井氏と自主講座は、東京大学にとって「獅子身中の虫」であり、その活動は大学にとって迷惑でした。だからなるべく教室を使用できなくするよう事務手続きが煩雑にされていました。たとえば駒場(目黒区にある教養課程キャンパス)でなにか講座を開きたいときには、1人の教授のはんこと事務のはんこの2つをもらえば手続き完了です。ところが、本郷(文京区にある専門課程キャンパス)では、都市工学科の教授のはんこ、工学部を代表する教授(3ヶ月交代制)のはんこ、都市工学科事務長のはんこ、工学部事務長のはんこ、大学事務長のはんこの5つをもらわなければ、講座が開けません。さらに、はんこを押した教授は、講座開催期間中、同席しないまでもキャンパスに居らねばなりません。平日でもこの煩雑さです。すべて、自主講座対策です。さて、その上で、日曜日に教室が借りられるでしょうか?そんな絶望的な状況下、私ははんこを貰いに奔走しました。
 勿論、都市工学科の教授、助教授がたには、手当たり次第にアプローチしました。でも、もともと宇井氏を良く思っていない人ばかりなのに上乗せして、そんな彼らを日曜日にも大学に拘束しなければならないのです。はんこを押してくれるわけがありません。都市工学科のボス的な立場のV教授いわく:「宇井純はほんとは教授になりたいのだ。その野心が見え見えではないか。君のように自主講座に出入りする都市工生は10年に一人位いるけど、利用されているのが解らないのか?」私はそれには答えませんでした。さらにV教授:「私も学園闘争に参加したんだよ」私:「へー、先生もゲバ棒をふりまわしてたんですか?」勿論、V教授が学生運動を抑える立場だったのを承知で切り返したのです。結局はんこはもらえず、別れ際、V教授は「また来い」と仰られました。それなりに私を評価してくれたのでしょう。私は「もう、来ませんよ」と返しました。
 H助教授は、「学生にこんな仕事をやらせるとは!宇井は何を考えているのだ」と憤慨しました。反応は色々でした。
 宇井氏は、煩雑な手続きなどは、大学の勝手な取り決めなのだから、無視すべしと言う立場でした。ところが、機械工学科の朝田教授は、「何をやっても良い。何はともあれ、手続きは守れ」と諭してくださいました。以上の結果を持って宇井氏に持っていったところ、大喧嘩になりました。私:「僕は、こんな下らない仕事など受けたくなかった!また、手続きはちゃんと踏むべきだと思います!こんな講座、止めたらどうですか!」宇井氏:「君も東大生にすぎなかったか。(当時の東大生に否定的だった宇井氏らしい皮肉です)」私:「決まってるでしょう、僕は東大生ですよ(むしろ東大生であることに誇りを持って)」このやり取りを聞いていた件(くだん)のグループのリーダーいわく:「宇井さんと正面切って喧嘩できる奴がいるとは思わなかった。」なにはともあれ、なんとか教室は使用許可になり、講座は開けたようです。(私は出席しませんでした。)細かなことは覚えていません。ただ、宇井氏に課されたこの理不尽な仕事は、それ以降の仕事も含めて、工学部の色々な教授たちと交渉することで、私の顔と見識を広くしてくれましたし、何かの行動を起こす際に、手続きを踏むことが重要だと言うことを教えてくれました。
        森村助教授との出会い 森村道美(みちよし)助教授(当時、のちに教授)も、はんこを貰いに伺った一人です。都市計画に関しては、その緻密なケース・スタディーにおいて並ぶ者のない方です。森村さんもはんこは下さりませんでしたが、「森下君、そんなことしてて大丈夫なのかい?」と心配してくださりました。そしてそこで面白い会話をしました。 森村さん:「中西さん(中西準子助手)が、長野県駒ヶ根市で、下水道の都市計画をしているよね。私も下水道における都市計画には興味があるので、計画書を読ませてもらったけど、彼女の計画にはDO NOTHING(ドゥー・ナッシング、何もしないこと、無為とでも訳せましょうか)がないね。」その一言を聞いて、私はなにか悟るところがあり、「ドゥー・ナッシングとはそういう意味だったのですか。授業で教わったことと大きく意味が違います。確かに、中西さんの下水道計画にはDO NOTHINGがない。」と答えました。まるで禅問答なので、次に以上の会話の解説をしようと思います。
      DO NOTHIGの意味するもの
  そもそも、DO NOTHINGと言う言葉は、都市計画の授業には必ず登場するものの、だれもがあっさり通りすぎてしまう用語です。これから都市関連施設の開発しようとする者が、「何もしない」訳がないのです。私も、この用語を授業で聞いた時、「詰まらぬ概念だな」、と通りすぎていました。ところが、このDO NOTHINGこそ、都市工学の、ひいては全学問の核心なのです。
 私は、専門が決まってから、生まれて初めて環境問題に関心を持ち、中西準子女史著「都市の再生と下水道」に触発されましたが、その分野ではもっと過激な宇井純氏の自主講座に出入りしていたのです。その頃、中西女史の「駒ヶ根市下水道計画」というプランが出てきた訳です。ところで、水俣病の告発で名を揚げた宇井氏は、缶切りの使い方を知りませんでした。中西女史は高層マンションに住み、都会生活をエンジョイしていました。いずれも、都市民としての視点しか持ち合わせていません。そんな人が下水道計画を立てたら、最悪とまでは言わないまでも、詰まらぬもの、中途半端なものしか出来ないでしょう。実際その通りで、私にとっては、中西女史の計画は食い足りぬものでした。そう思っている時の、森村助教授との会話は、一瞬にしてことの真相を教えてくれたのです。「踏みとどまることを知らない計画は、計画ではない」と言うことです。下水道建設を唯一の選択肢とする点で、彼女の計画は、杜撰なのです。森村助教授は、計画書だけでそれを見抜いたのです。
 ちょっと例を変えて――冬山に登山しているとき、吹雪に遭遇した場合、進むか引き返すかの選択は生死を分けます。中西女史の下水道計画は、まさにこれなのです――進むことしか知らない。その状況は、原発建設、ダム建設、河口堰建設にも同じ様にあらわれます。どの場合も、都市民の生活様式に疑問を抱かずに進められる点で共通しています。そして、引き返すことを知りません。もう一つ例を挙げると、振り子――これが振動している時、右にも左にも揺れますが、かならず真中の点を通ります。振動を止めれば、その点に振り子は止まります。所謂「不動の一点」です。その点こそがDO NOTHINGなのです。この点のことを常に心に留めておくことが計画をする者の要諦なのです。これはすべての学問にも言えることです。DO NOTHING(無為)についてどう考えるか――これは全ての学研に必須の課題なのです。
 正規の授業では私にとって何の意味も持たなかった「DO NOTHING」は、自らの体験および森村助教授からの示唆によって、新しい意味を与えられました。この言葉の本当の意味が理解できただけでも、都市工学科に進んだ、ひいては大学に行った甲斐があったと言うものです。そして、この「悟り」を得られたのは、授業でではなく、森村助教授との雑談の中ででした。私に理解出来る準備があり、森村助教授が適切な解説をして下さったからなのです。白紙の状態で授業に出て、なんとなくノートを取る学生、なにも研鑚を積まずに講義をする教授。こんな授業は有害なだけです。そしてそれは残念ながら、現在の大学教育にありがちな光景です。森村助教授がいみじくも言っていました:「今の学生は、授業に出すぎる。もっと遊ぶべきだね。」
       森村助教授による助け船 その2年後、森村助教授には卒論審査の際、大変お世話になりました。自主講座での運動が過ぎて、留年(2度目)して、今度はちゃんと卒業しないと後がない状況で卒論に取り組みました。その審査当日、私が発表する番の時、H助教授が噛み付いてきました。私は、すごくラフな服装で、マフラーを首に巻いていました。いわく:「森下、マフラーを取って発表しないと卒業させんぞ!」それを受けて私:「解りましたよ、取ればいいんでしょう?こんな下らないところ、早く出たいや!」と投げやりに発表を始めました。そのH助教授とは浅からぬ縁がありました。アルバイトが忙しくなり、H助教授に「演習(必須)に出ている暇がありません」と申しでたことがあります。これは、かつて評論家の小林秀雄が「女と同棲しているので稼がなければならない。だから授業に出ている暇はありません」と辰野隆(たつのゆたか)フランス文学科教授に申しでたのを真似たのですが、小林の場合、試験を課されて、その結果を見た辰野教授が「これくらい出来るなら授業に出なくてもよろしい」と言うことになったのですが、私の場合、試験は課されず、「とにかく、演習には出ろ」と言われたに止まりました。H助教授とは犬猿の仲だったのです。彼は都市工学科・衛生工学の本流に属する人でした。水処理の世界では良かれ悪しかれ有名な石橋多聞氏(故人)の子分の一人がH助教授です。石橋氏は厚生省(当時)に顔の利く人で、色々悪さをしています。一つ例を挙げると、岐阜県高山市上水道計画への関与のあり方です。高山市が水源として上流に廃坑がある地点を選定しました。鉱毒の恐れがあります。その計画書を見た石橋氏は、計画書を一読しただけで、すなわち実地を見ないで建設にゴーサインを出しました。不安に思った現地住民は、衛生工学の大学院生に助けを求めました。ここに、教授と院生の間で、前代未聞の戦争が起こりました。石橋氏は院生に吊るし上げを喰らいましたが、その際、就職の斡旋をしないなどの圧力を院生にかけて石橋氏を助けたのがH助教授です。以上の経緯は「公害原論(自主講座)」に詳しく載っています。私はそれを知っていたので、H助教授には敵意に近いものを持っていましたし、彼も同様でした。たまたま私の頃の就職担当がH助教授だったので、私は斡旋も断っていました。因みに、現在の都市工学科・衛生工学は、この石橋―H助教授の人脈で固められています。碌な物ではありません。
 私は、目出度く卒業できました。教授会での一幕を中西助手が教えてくださいました。H助教授が私の卒業に異を唱え、「発表はすごかったが、まだ卒論の本文は半分も書いてない、と言う。こんな奴を卒業させられるか!」と言ったとのこと。その時、森村助教授が「いいかげんにしろ、H!卒論もまともに書かずに海外旅行に行く奴もいるのに、ちゃんと本文を書く、と言っているのだ。卒業させてやれ!」と一喝したそうです。コネで助教授になったH助教授とは違い、実力で助教授になった森村助教授の言葉は「鶴の一声」でした。誰も異を唱えなかったそうです。それに、森村助教授が都市計画の教官で、衛生工学のではなかったことも幸いしました。都市工学は都市計画と衛生工学で構成されているのは前に書いた通りです。卒業記念パーティーの時、森村助教授は「君はやるとは思っていたが、これほどやるとは思っていなかった。卒業後、何をやってもいいけど、活動の報告は聞かせてくれよ。」と話してくれました。私の仕事は、森村先生にも感銘を与えたのでした。私にとって、宇井助手や中西助手はあくまで宇井さん、中西さんです。森村助教授は、永遠に「森村先生」です。因みに、V教授は、私の卒論審査には出席なさいませんでした。

災害の芽を摘む―狼を手なずけよう

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