仁義礼智信・忠孝悌――古代中国の徳目
ちょっと変わったお話として、古代中国の道徳徳目について書いてみようと思います。普通、「徳」とか「仁義」とかいう言葉を思い浮かべる人は多いでしょう。ただ、カビの生えた、ヤクザの使いそうな概念である、との連想もあるでしょう。中島敦の「弟子」によれば、これらの概念の大元締めである孔子は、人間洞察力の優れた、また親しみやすいが教化力の優れた名教師として描かれています。私もこの孔子像は、現実に近いものと思います。その教理の基本は「仁義礼智信」(五常)です。一種の「人間関係論」でもあります。身近な例で学校教育に対応させると、学校教育の目的は洞察力(「智」)を養うことだと思います。これは、周囲の雑音に惑わされずに本質を見抜く能力です。その過程で、先生と生徒は一定の手続きに従って教え・教えられます。これが「礼」です。正しい意味の把握とその実践が「義」です。この徳目の場合、正しく生徒が実践できない場合には罰を与えられます。ただしその場合でも生徒の成長を期待する優しさが必要とされます。これが「仁」です。以上の4つの徳目は、生徒と先生の相互信頼が前提で行われます。これが「信」。これらの5つの徳目は確かに「人間関係」を規定しますが、それぞれ別個の機能を持っているので、単純な「人間関係」だけを示すものではありません。コミュニケーション論としても、耳を傾ける価値があると思います。「義」であれば、「正しい用法」のことを示し、それの適用範囲を規定することを「定義」と呼ぶわけです。
また、中国独特の「陰陽五行論」にも対応していて、木・火・土・金・水に応じて、仁・礼・信・義・智が並びます。このうち礼は火であり、生徒を金物に例えれば、それを鍛える触媒として礼(火)があるのです。以下同様。孔子の言行を集めた「論語」には五常が頻繁に登場しますが、以上のような視点から見れば、従来とはまた違ったコミュニケーション論が読取れるでしょう。
一方、そこへ行くと、「忠」は「主人」と「家来」の人間関係、「孝」は「親」と「子」の人間関係、「悌(てい)」は兄弟の人間関係を規定したもので、「仁義礼智信」に比べると、具体的な関係にこだわりすぎていて、一段抽象性が劣る徳目です。(以上8つの徳目をネタに書かれていたのが、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」です。余談でした。)でも、儒家は基本的に官吏になることを志向した集団なので、当然身分関係を規定するこれらの副次的徳目に絡め取られたように思えます。中国や韓国が近代化に失敗した一因は、極めて儒教的な、この「忠」「孝」にこだわりすぎたからだと思われます。江戸時代の日本は、儒教を中途半端に受容したから、明治時代に飛躍できたのだと思われます。(ただ、「忠」については、太平洋戦争の頃の日本人のメンタリティーを規定していたのではないか、との指摘を受けたことがあり、それはその通りだと思います。また、中国、韓国の場合、近代化の失敗の原因としては、「忠」の概念だけでなく、科挙に代表される「四書五経」などの解釈のみ重視し、工学などの実学を軽視した弊害もあると考えられますね。)「人間関係」と一口に言っても、いろいろな様相があると思います。なお、「徳」というのは「得」に通じ(音も同じ)、有形無形の蓄積を示します。この徳目は、儒家より、老子、荘子などの道家が重視しました。
今日のひと言:一時期、古代中国の卓越した文化に夢中になり、老子、荘子、易経、陰陽五行論などを勉強しましたが、現代の中国のあり方には、私は否定的です。
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