虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

*海洋と陸地――地政学への招待 その4
百年戦争とイギリス・・・雄飛へのステップ

(この一連のブログは、友人と共同執筆しようとした高校生向けの教科書が路線の違いで、ボツになったため、もったいないのでアップしています。ご確認までに。全7回。) 
A:以下の年表を見てもらおうかな。これは、むしろ「ノルマン人を介した英仏関係
史」と呼ぶのが相応しい。参考にしたのは主に「フランスの城と街道」(紅山雪夫・トラベルジャーナル社)だよ。

8世紀末     フランス西部をノルマン人がしばしば襲撃。
911年     シャルル3世(単純王)、臣下になることを条件に、ノルマンの首領
         ロロに現在のノルマンディーを与える(ノルマン公国成立)。
11世紀     ロロから7代目のギョーム(英語ではウィリアム・妾腹)が頭角を現
         わす。    ここでフランス国王アンリ1世(カペー家)は、ギョ    
         ームの台頭を恐れ、宿敵だったアンジュー伯と手を組むが、ギョームは、はね返す。
1066年    ヘイスティングスの戦いに勝利し、 ギョームは、イングランドも領有する。これで、ノルマン公国は英仏両方に領土を持つことになる。(ギョームは、イギリス王としてはウィリアム1世となる。)

 12世紀     ギョームの4男ヘンリー1世、アンジュー家に娘を嫁がせる。以後、
          イギリス王位はアンジュー家プランタジネット家)が継承する。
          なお、ヘンリー1世は、被征服民のアングロ・サクソン人とも縁組して、融和を図る。アンジュー家の隆盛。

 1152年    ヘンリー2世、女傑のエレオノール(フランスの大領主アキテーヌ公の娘)と結婚。後年不仲になり、エレオノールの意を受けた実の息子たちと争うことになる。十字軍で有名なリチャード獅子心王もそのひとり。これにカペー家の陰謀も加わる。

 1203−6   カペー家のフィリップ2世、プランタジネット家のフランス内の領地をほとんど征服。一部がイギリス領として残る。

 1339年    百年戦争勃発。イギリス王エドワード3世が、フランスにおける領土の奪回とフランス王位継承権を主張して出兵。また、フランドル地方(今のベルギー西部からフランス北端)の毛織物の利権も争点になった。

 1346年    クレシーの戦い。武器に勝るイギリス軍が有利に戦いを進める。

 1420年    イギリス王ヘンリー5世の子がフランス王位も兼ねようとし、フランス王室自体も内紛に揺れるが、ジャンヌ・ダルク(1412年生まれ)のオルレアンでの活躍もあり(1428年)、フランス軍は巻き返す。

 1453年    百年戦争、イギリスの敗北と撤退で終結。(カレーのみ領地として残る)

以上。お疲れさま。ここで基本的な問い。
 問い:ノルマン人とはどのような民族だったか、簡潔に述べよ。



A:この問いで、とりあえず押さえておきたいのは、ノルマン人が「海洋民族」だったこと
だね。「海洋民族」は「遊牧民族」と同じくアクティヴで、しばしば歴史を動かすことがあ
る。優れた航海技術を持つ「海洋民族」は、川さえ遡り、侵略対象国家の屋台骨を揺るが
すんだね。ノルマン人が正にそうだった。そしてまた問い。

 問い:以下の文章の空欄を埋めよ。
  百年戦争の最大の原因は(1)がイギリス、フランスの両国に領土を持っていたこと
  にある。そもそもは8世紀のフランス王室が(1)を懐柔するため、その首領に現在
  の(2)地方を与えたことに端を発するが、武勇に優れた(1)は、順調にそのフラ
  ンス内の領地を拡大し、さらにはイギリスの先住民(3)をも屈服させる。ただ次第
  に、縁組により、(1)はフランス化していき、その活力は失われていく。歴史を動か
  す(1)の役割は、一応終結する。ただし、現在の英語には(1)の影響が残ってお
  り、「食堂」を意味する(4)は英仏共通の綴りだし、肉類の名称などは、旧英語から
  見れば外来語だ。例えば豚は旧英語で(5)だが、肉としては(6)となる。これは
  (1)に征服された影響である。
  

B:無念にも百年戦争に敗れたイギリスだけど、それはその後のイギリスにとって、どんな
 意味があったんだろう。
A:それが、結果的には、イギリスの雄飛につながるんだよ。歴史とは不思議なものさ。ひ
 とつには、フランドル地方を失ったことで、毛織物の生産は自国内でやらなければなら
 なくなったが、これは、イギリスの自営農家階級の勃興をうながす。そして、次に引用
 することが特に重要だよ。


   ##大英海洋帝国の主役となったアングロ・サクソン人は、まず自らがライン川
  流地方からドーバー海峡を押し渡ってグレート・ブリテン島にやってきた冒険的、進
  取積極的な性格に富む人々であった。先住民ケルト人と戦いつつ、しかも長い間、7
  王国に分かれて抗争していたように、安易な妥協をいさぎよしとしない激しいファイ
  トと競争心を備えていた。そして一旦はイングランドを支配する誇り高い王者になっ   
  たのに、ノルマン人の支配下に屈従を強いられることになった。これが、その忍耐力、
  柔軟性、創造性などを鍛えあげた。## 
                 「日本地政学」(河野 収・原書房)P24−25
 そして、ケルト人とノルマン人の中間階級の地位から、次第にノルマン人を圧倒していく。1295年には議会へ代表を送り出し、そしてなんと、20世紀になって初めて、1911年、首相ロイド・ジョージのとき、ノルマン人の特権を全て取り上げるのに成功する。1066年の軍事的敗北から、なんと850年かけて、完全に国家主権を手中に収める。なんとも、粘り強いな、と思わせる逸話だね。

  ##イギリスは、百年戦争の失敗と内紛のために、ヨーロッパ大陸の足場を失ったが、これはかえって大陸での紛争の渦中から身をひき、自ら独自の道すなわち海上への進出のために努力の大半を投入するという道を選ぶため、行動の自由を得たことであった。
  これから後のイギリスは、再びヨーロッパ大陸に自らの領土を持とうとはしなかった。そしてヨーロッパ大陸に対しては、これを分裂して競合させ、自分の競争者が育たないようにし、大陸からの脅威が発生することを抑止した。そのため大陸での紛争に際しては、弱い方を支援して強い方を叩く政策を採用している。後にスパイクマンが「米国の平戦時を通じての主目標は、旧世界の中心勢力同士が結合して米国に対抗するのを阻止することにある」と述べたが、この当時のイギリスの対ヨーロッパ大陸政策は、まさしくこのスパイクマンの主張を実行していた。##
                  「日本地政学」P26−27

この2番目の引用のなかに、イギリスが大海洋帝国になれた要因が読み取れる。ところで、
「史上、最大の版図を持った国はどこか?」と聞いたら、君はどう答える?
B:やったー!僕としてはひさびさの登場だね。やっぱりモンゴル帝国なんか、ユーラシア大陸の大部分を領有したから、ここかな。それに次ぐのが旧ソビエトかな。
A:残念。答えはイギリスだ。イギリスは海洋を利用して、最盛期には世界の有効な陸地のほぼ30%を領有した。これには、モンゴルもソビエトも及ばない。
  その巧妙な植民地獲得政策と統治政策の詳細は「日本地政学」に譲るけど、注目したいのは、世界中で、イギリスと地政学的にもっとも似た条件にあるのは、日本である、との主張だ。そこで問い。
 問い:同じ島国であるイギリスと日本の共通点と相違点を考え、挙げてみよ。特に政治的な面。



B:いろいろあると思うけど、僕は「鎖国」をしたことがあるか、ないかを挙げたいね。日本はほぼ完全な鎖国を2回しているけど、イギリスは、僕の知りうる範囲では、ないね。
A:いい着眼点だと思うよ。そこから、何が読み取れるだろう?それに、他にもあるだろうね。  (つづく、次回はインターミッション:「新世紀エヴァンゲリオン」がテーマ)

今日のひと言:素敵な哲学者・池田晶子さんと哲学勝負をして、負けたほうが罰として、勝ったほうとデートする。(池田さんは「週刊新潮」にコラムを持っています。)