虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

イギリスはどれだけの人数でインドを支配したか?

  インドが東インド会社に、またセポイの反乱以降はイギリス本国に支配されたのは有名な事実ですが、実際何人のイギリスが関わったのか、非常に興味がありましたので、調べてみました。まずは、ネットで調べました:


カネとモノの流れを単純に考えてみると、イギリス東インド会社は徴税権を持ち、インド人から税金をとる。その税金で、インド農民から原綿を買い付けると考えれば、ただで原料を手に入れている、もしくは奪っているのと同じことです。それを加工した製品をインド人に売るということは、つまり、奪った原料で作った製品を、奪った相手に売りつけているわけで、富は一方的にイギリスに流れることになります。イギリス側にとって、これほど儲かる商売はないし、インド側からみれば、最大限搾り取られているわけです。

(中略)
 各地のシパーヒーが蜂起すると、東インド会社軍と関係のない民衆もたちあがり、インド全体が反乱状態となりました。これをインド大反乱といいます。以前は、シパーヒーの反乱、もしくはセポイの乱とも呼ばれていましたが、反乱に参加したのはシパーヒーだけではないので、現在はインド大反乱と呼んでいます。
  
  (だが、敗北する、そして・・・)
最大の理由は、反乱側内部の不統一です。はじめから反乱軍は烏合の衆で指導部もありませんでしたが、加えて、地域間の対立、カースト間の対立によって、インド人どうしがひとつにまとまれませんでした。イギリス側は、このようなインド人どうしの対立を巧妙に利用していったのです。同じインド人でありながら、シク教徒がイギリス側についているのがそのよい例ですね。

イギリスのインド支配は巧妙で、インドが団結してイギリスに抵抗しないよう分割統治をおこないました。インド帝国は、イギリスの直轄領と、550以上の藩王国から構成されていて、藩王国は外交権はないし、イギリスの監視付きではありますが、マハラジャとよばれる藩王自治が認められていた。マハラジャからすれば、無理してイギリスに抵抗せず、このままマハラジャの地位を認めてもらった方が安泰です。旧勢力を温存し、旧支配者層の抵抗を薄めながら支配したのです。このインド帝国は第二次大戦後の1947年までつづきました。

http://www.geocities.jp/timeway/kougi-100.html  イギリスのインド支配


なるほど、巧妙にして残酷な統治ですね。でも・・・イギリス人何人でインドを支配していたか、との私の原初の疑問には、回答がありませんでした。

 そこで、図書館の本を検索し、見つけた本が「世界最強の商社」(浜渦哲雄:日本経済評論社)です。この本でもナカナカ目的が果たせないように思われましたが、ありました。

イギリスのインド統治の特徴の一つである小数の白人による効率的統治方式は会社の時代に確立されたものである。それは基本的に文民統治で、暴動の鎮圧でも軍が前面に出ることは少なかった。文民統治の中核となる全インド勤務(All India Service)の行政官は高等文官(ICS)、警察、林業、教育、農業、獣医、エンジニアリング、医療などの総勢4000人弱であった。当時のインド人口約3億人のなかの4000人以下(1920年頃には約500名のインド人高等文官がいた)であり、文字どおり「白人の見えない統治」であった。(150P―151P)

だとすると、イギリス人1人あたり

3*100000000/4000=75000 (7万5千人)

のインド人を統治していたことになりますね。やり抜いたイギリス人はスゴイですね。もちろん、平時のことであり、戦争時にはインド人の比率が高い軍隊によって反乱を制圧していたのですね。最盛期、ナポレオン戦争の時期に16万人くらいの軍隊がいたそうです。言ってみれば、イギリスは、まるでウイルスのようにインドという巨象に取り付いていた、というところでしょうか。



今日のひと言:カースト制度は、古代の征服民・アーリヤ人が自分に都合のいいように作った悪習ですが、数千年経って、その弱点をイギリスに突かれたというわけですね。