虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

まど・みちおの詩~老荘思想との類似性

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まど・みちおwiki


詩人のまど・みちおさんは2014年2月に104歳で亡くなられましたが、有名な「
ぞうさん」とか「不思議なポケット」などの印象的な童謡の原詩を手がけておられたことを、彼の死後に知りました。彼の大体の経歴はwikiから

まど・みちお(本名:石田 道雄〈いしだ みちお〉、1909年〈明治42年〉11月16日 - 2014年〈平成26年〉2月28日)は、日本の詩人である。25歳のときに北原白秋に認められ、33歳のときに召集される。詩作りは20代から始め、以来詩を作り続けた。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。

また、まど・みちおさんは、工業高校を卒業した土木技師だったそうです。理科系の詩人なのですね。このタイプの詩人は、独特な、観察眼に裏打ちされたうすっぺらでない詩が書けるように思います。
以下のやり取りはブログ上の友人であるnarumasa_2929さんとの間で交わしたコメントとレスです。


iirei:私は「やぎさん ゆうびん」が好きでしたが、この詩を書いたのがまど・みちおさんだったことは初耳でした。彼の詩は、自分本人を消去して、消去して匿名性を持たせ、そして普遍性にいたる体のものだったと思います。平易にして深い、これぞまどさんの詩だと思います。私にはとてもまねできません。


narumasa_2929 : iireiさん

コメントありがとうございます!

>彼の詩は、自分本人を消去して、消去して匿名性を持たせ、そして普遍性にいたる体のものだったと思います


なるほど、こういう特徴があるのですね。
iireiさんのコメントを読んでいたら、井上ひさしさんの
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」
という言葉を思い出しました。
また、司馬遼太郎さんと子母沢寛さんの歴史小説も思い出しました。平易だからこそ獲得できる深さ。
ちょっとテクニックどうこうで何とかなる次元の話ではなさそうですね。「生き方」に関わる次元のような気がします。

http://d.hatena.ne.jp/narumasa_2929/20140307/1394124618


では、まどさんの詩を2篇挙げて論評してみます。



やぎさんゆうびん:♪しろやぎさんからおてがみついた・・・」と詩はまどさんの作品のなかでも有名な作品です。しろやぎさんもくろやぎさんも、手段と目的を取り違えていのに笑えます。このような手紙のやりとりが延々と続くのです。この詩の中で展開されているのは、「お互い永遠に理解できない敵」のディス・コミュニケーション(相互の意思疎通の不可能さ)です。むかし私が自主講座という運動に加わっていたとき、自主講座では講座の講演録を書籍化するのですが、講座の進行を大層邪魔した人物と、運営委員との果てしもなくつづく不毛な論争の記録として「討論の記録」という本を読んだことがあります。その闖入者はたいそう我がつよい人物でした。・・・このような事象も「やぎさんゆうびん」の事例として格好なものがあると思います。



さくらの はなびら


えだを はなれて
ひらひら


さくらの はなびらが
じめんに たどりついた


いま おわったのだ
そして はじまったのだ


ひとつの ことが
さくらに とって


いや ちきゅうに とって
うちゅうに とって


あたりまえすぎる
ひとつの ことが


まどさんは、宇宙も視野に入れた詩が得意です。この詩の場合、さくらのはなびらが地面に落ちてしまった瞬間の、全宇宙にたいするインパクトが歌われています。実に、中国哲学老荘思想、とくに「老子」との類似性が思い当たります。「老子」16章に「あらゆる生物はいかに茂り栄えても、それらがはえた根もとにもどってしまうのだ。根もとにもどること、それが静寂とよばれ、運命に従うことといわれる。・・・(中略)・・・天であることは「道」であることである。「道」は永久なのである。」(中公文庫:小川環樹訳注)ほとんど同じ考え方です。まどさんのエッセイを読んでみても、老子との・このような類似性が読み取れます。



今日のひと言:日本と言う国は、まど・みちおさんを生んだと言う点、誇っても良いと思います。「みちお」という名前の中にも老荘思想でいう根本概念「道」が出てきますね。何たる偶然、いや必然。(もちろん、老荘思想が仮にベストであったとしても、似ているからまどさんがスゴイと言っているわけではありません。)今回参考にした詩集は「くまさん」(童話屋:1989年初版)です。


くまさん

くまさん

まど・みちお 人生処方詩集 (コロナ・ブックス)

まど・みちお 人生処方詩集 (コロナ・ブックス)

麻原彰晃と水俣病

 

  

「つっぴーの憂い日記」:http://d.hatena.ne.jp/Tsuda_Katsunori/20120613/1339597637

 

に、興味深いお話が載っていました。それは、藤原新也のエッセイ集「黄泉の犬」に収められた「メビウスの海」というエッセイからの話題で、それは・・・

  

原田(正純)先生の推定では、水俣湾周辺海域で潜在的水俣病患者は20万人以上とされているが、しかし、現時点でも申請者は、おそらく7万人程度だと思われる。

(中略)

この本の前半部分に出てくる、オウム真理教の教祖である松本智津夫に関して、著者である藤原新也氏の推測通りならば、地下鉄サリン事件の元凶は水俣病であり、国とチッソの悪行が、オウム真理教を生み出した事になる。

(中略)

翻って、東電福島原発事故による放射性物質による健康被害が十数年後から発現し始めた場合、うやむやにしようとすれば、第2第3のオウムが出てくる可能性は否定できない。

  

 

なんと、麻原彰晃は、水俣病の未認定患者だったというのです!水俣病は、水俣湾だけでなく、八代海も汚染区域に入り、水俣病の患者候補としての51名に、麻原彰晃も入っていたということらしいです。

 

 

さっそく、図書館で「黄泉の犬」を借りてきて、読んでみました。

 

 

 この、一見奇妙な考えを着想したのは、藤原さんの手柄です。「麻原は八代出身」「八代は有機水銀で汚染されていた」「麻原は水俣病特有の視野狭窄であった」・・・その「恨み=ルサンティマン」こそ、一連のオウム事件の根本にあり、それは、チッソという国策企業と国の悪意を、形を変えて、社会に叩きつけることだったのですね。

 

 

 これらの疑問を晴らすため、藤原さんは人伝てに、麻原の全盲の兄・松本満広さんに面会します。彼は麻原を盲学校に入学させた人で、家族はあれほどの大事件を受けて、一家離散していました。彼が言うには、麻原彰晃も、八代における水俣病の認定を確かに受けていて、認定については「却下」されたそうです。なお、ここで聞いたお話は、満広さんが生きている間は口外無用でしたが、満広さんの死後、出版の運びになったそうです。

 

 

 そのルサンティマンが麻原を突き動かし、一連のオウム事件を招いたとしたら、それは実に悲しいことです。

 

なお、この本とその要旨について、水俣が故郷だという人のブログにその旨コメントしたところ、以下のような厳しい意見が帰ってきました。(要約)

  

 

全ては憶測に過ぎない。水俣病は社会の縮図。認定されることを恐れる人も大勢いる。また八代郡金剛村の麻原の実家は漁師ではなく、どうして水俣病に罹るような大量の魚が摂取できたのか。

また、麻原が水俣病で患者と認定されなかったことが社会へのルサンティマンになり、一連のオウム犯罪を起こしたことなど考えられない。

 

 

麻原と水俣病を結びつけることは一つの偏見である。

  

なるほど。しかし有機水銀の汚染域は水俣湾には限られなかったこと、麻原の兄(松本満広さん)は水俣病がうかがわれる視野狭窄全盲でした。また、漁村でなくても、麻原が子どもの当時、肉は食べなれず、魚をメインに食べていたのなら、閾値を超え、麻原を視野狭窄にしたことも考えられるでしょう。

 

 

今日のひと言:この「黄泉の犬」は、麻原彰晃と彼に関連して思い浮かぶ随想を緩やかに綴ったという感じの本で、私は個人的には藤原新也さんの文体は回りくどく、あまり好きではありませんが、なるほどな、と思って読み終えました。私は、麻原に水俣病の影をみることは、思考実験として、可能だと思います。

 

 

空中浮遊の話もあり、インドで2例、藤原さんは見ているそうですが、どちらも手品と云ったものだったと書いています。もちろん、麻原彰晃の空中浮遊も同類でしょう。

 

 

「黄泉の犬」:藤原新也文藝春秋:2006年初版

 

 

黄泉(よみ)の犬 (文春文庫)

黄泉(よみ)の犬 (文春文庫)

 

 

メメント・モリ

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