虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

経済学の良心――自動車の社会的費用その3

  2007.05.15 森下礼 

 *経済学の良心――自動車の社会的費用その3(世の中には、自分たちの住む地域にどうしても高速道路が必要だと言う人たちもいるようで、例えば日本海沿岸に高速道路を、という運動を20年近くやっている運動もあるようですが、自動車、道路社会の問題点を認識して欲しくて、この文章を書きました。)  

FAVORITE DRIVING MUSIC 渋滞快走

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(承前)   (#から#まで引用:ちょっと長いです。教科書の本文と考えてください)



 #さきに説明したように、歩行にかんしては混雑現象がおきないように道路網を整備することは可能である。というのは、もし仮に、歩行に対して料金が課せられたとしたとき、歩行需要の料金についての弾力性が低い。したがって、料金がきわめて低いか、あるいは無料になったとしても、歩行に対する需要はあまり増えないからである。このことは、歩行に対する需要が選択的なものであるというより、必需的な性格をもつものが多く、しかも価格弾力性が低く、社会的に供給される必要度の高いものであるということと密接に関連している。しかも、歩行によって他人に迷惑を及ぼすことは少なく、社会的費用の内部化は容易におこなわれると考えてもよい。
 同じような事情は自転車通行についても主張されよう。ただ、自転車の場合には、歩行者に対して危険を与えることが往々にして存在し、その点での社会的費用を無視することができない。したがって、自転車通行にかんしては、専用のレーンを作るなり、スピードその他にかんする規制を設けて、社会的費用の内部化をはかることが、ある程度必要となってくる。
 しかし、同じ道路を自動車通行に使用するときには、事情はまったく異なったものになってくる。まず第一に指摘しなければならないことは、現在の日本では、すべての人々が自動車を所有し、運転し、道路サーヴィスを使用するということが市民の当然の権利として社会的には認められていないということである。その第一の理由は、歩行、自転車などと異なって、もし、自動車重量税、通行料金などによって、自動車を所有し、あるいは運転するコストが高くなったとき、自動車所有あるいは運転に対する需要がはるかに低くなると考えられることである。したがって、支払い能力があり、支払う意志をもつ人だけが自動車を所有し、運転できる、という市場機構的な原則が貫かれるべき性質のものであるといえよう。第二の、そしてより根本的な理由は、すべての人が自動車を保有したときに、自動車交通によって他の人々の基本的権利が侵害されないように道路網を建設し、整備するということは、ほぼ不可能に近いということである。このような観点から、自動車通行は市民の基本的権利を構成する要素ではなく、むしろ、選択的な形で消費されているものであるということができる。したがって、自動車を所有し、運転する人々は、他の人々の市民的権利を侵害しないような構造をもつ道路について運転を許されるべきであって、そのような構造に道路を変えるための費用と、自動車の公害防止装置のための費用を負担することが、社会的な公正性と安全性という観点から要請されてくる。
 日本の街路にみられるように、歩行者の基本的権利を完全に侵害するようなかたちで自動車の通行がおこなわれ、歩行者はたえず生命の危険にさらされているという状態は、このような観点からもきわめて異常なものであるということができる。このような事情のもとでは、自動車を購入し維持する能力をもつ人々が、自動車を使って、歩行者の安全、歩行の自由という市民的権利を侵害しているともいえよう。#



A;歩行者、自転車通行者に比べ、自動車運転者がいかに特別なのかわかるよね。ここでこの3者の比較表を埋めてもらおうかな。
問題:以下の表の空欄を埋めよう。

             他者の権利侵害の程度     社会的費用の内部化の程度
歩行者・・・・・・
自転車通行者・・・・
自動車運転者・・・・

B:はっきり言って、このようなタイプの経済学なんて、聞いたこともないよ。
A:そうだろう?高度経済成長の頃、僕の子供の頃だけど、確かNHKのある教育番組に、道路技術者が出演していて、アナウンサーに「このまま道路網が増えていったら、道路以外の国土面積は激減しますね?」と問われ、「でも、やるしかないんです」と答えていた。でも、この技術者はなにを以って「国民の豊かさ=富」と考えていたのだろう。本人も解ってなかったんじゃないか、と考えざるを得ないし、現在の、飽和状態を超えてもさらに高速道路を建設しようとしている人達などは、この時の技術者の意識レベルから一歩も出ていない気がするんだ。そして、自動車の社会的費用についてのひとつの結論が以下の引用だ。



 #自動車通行にかんして、社会的費用の内部化という問題を考えるとき、自動車利用者がガソリン税、重量税などのかたちでどれだけ私的費用を上回る額を負担しているか、という点を考慮しなければならない。この問題を考えるために、自動車関係諸税からの税収額と、一般道路に対する国と地方公共団体の投資額を比較してみよう。たとえば1972年について前者は1兆5000億円であるのに対して、後者は1兆6000億円で、道路投資の93%は自動車関連に対する税収から賄われていると考えてもよい。この比率は多少変動はあってもここ数年にわたってほぼ安定的であるから、大ざっぱにいって道路投資は自動車関係の税収とほぼ同じ程度の額であるといってもよいであろう。
 この社会的費用をどのようなかたちで自動車通行者が負担したらよいか。もっとも単純な方法として考えられるのは、1200万円という投資額に対する年々の利息分を、自動車1台当りに年々賦課する方法である。この1200万円を他のもっとも生産的な用途に向けたときに、実質で10%の収穫率を生み出し、物価水準の平均上昇率を6%とすれば、名目利子率は16.6%となるから、自動車1台当りの年間賦課額は約**万円となるであろう。#
 
 問題:上の引用の、**に当る数字を選びましょう。
  1)2     2)20    3)200

B:答えは2)かい?
A:残念!3)だよ。これははっきり言ってべらぼうな数字ではないか。ガソリン税とか自動車重量税くらいではとても追いつかない!自動車を所有、運転することは、それだけで、巨大な社会的費用を生み出す=公害を生み出すという結論になるんだ。2007年現在、色々な排ガス対策、環境対策を施した自動車が喧伝されているけど、空しく響くだけだ。それに、以上の試算は30年以上前のものであり、現在はもっと高騰しているはずだしね。
B:結論は僕に言わせてよ。自動車は富をもたらさない!!・・・これかな。
A:同感。でも、このような結論を導けるのは、経済学の良心だと、僕は思うな。



 今日のひと言:イラク戦争をみたレーガンアメリカ大統領は「これはハルマゲドンか?」とまわりの人に聞いたとのこと。なになに、ハルマゲドンは身近なところにあります。「春巻き」をトッピングした料理「ハルマキ・丼」すなわち「ハルマゲドン」です。


 今日のひと言2:瀬川瑛子の曲「長崎は今日もむらさき」を「長崎は今日もながさき」と聞き間違えたぞ。まあ、どちらでもいいか。