旧約聖書・創世記の問題記述
民族シリーズ その4
(4回に渡る「民族」特集。途中2回、インターミッションが入りました。これが最終回。)
以下、旧約聖書・創世記の記述を引きます。
『箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。
さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、
「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。」
また言った、
「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ。』
口語 旧約聖書:日本聖書協会 創世記第9章18−27節
以上は極めて不可解なお話です。ノアが酔っ払って寝ていたのはノア自身の責任であり、それを見た末っ子のハムがのろわれる・・・いや、正確に言うと、なんら当事者ではないハムの子、カナンがのろわれるというのですから。また、神でもない人間のひとりノアが人間の運命を決するというのもおかしな話です。
ハムが、実は父のノア相手に「男色行為」をした、という説もあるくらいです。例えば「旧約聖書を知っていますか」(阿刀田高:新潮社:190ページ)など。私が引用した上掲の文献には、そのようなお話は一切出てきませんが、説としてはあるのです。そのことに言及したブログもいくつかあります。
そして、一番問題なのは、ハム、カナンの子孫が黒人に擬せられ、ヨーロッパの白人たちが黒人を奴隷にする口実に使われたという歴史的事実です。さしづめ、ヤペテの子孫である白人が、ハムの子孫である黒人を使役して当然、といったようなスタンスなのです。「しもべ」となることを運命付けられた民族だから、というわけでしょうか。大きな言語の分類として、アフロ・アジア語族というのがありますが(以前はセム・ハム語族と呼ばれていた)、アフロとは、まさしくアフリカの意味です。ハムの子孫=アフリカの黒人?
私は、民族の由来を記した宗教上の経典には、問題が多いと思います。たんにある時点、ある民族の一作家が書いた記述なのに、それが一人歩きを始めるからです。残念ながら、人間にとって、人種、民族の問題は、普遍的な問題なのです。また、創世記によると、イスラエル人>アラブ人>黒人といったヒエラルキーが存在し、今問題となっているスーダン・ダルフール地方の民族紛争(ダルフール紛争)ではまさしく、アラブ系のバシル大統領が黒人を迫害するという図式になっています。彼らは忠実に上の不等式を実践しているようです。アラブ人も侵略する・・・ここで想起する言葉:「人は人に対して狼である」(ホッブズ)。この言葉は、聖書の美しい聖句より、私の心に響きます。(注:創世記アブラハムの事跡のところで、妻のサラが不妊のため、サラは下女のハガルを代理にしてアブラハムの子を産ませます。ところがサラも子どもを産み、邪魔になったハガル母子は追放されます。この子がアラブ人の祖であり、正妻サラの産んだ子がイスラエル人の祖だ、とあります。)
今日のひと言:「絶対平和」と「絶対的愛」を唱えるキリスト教の某分派(「もの・・・」)は、上掲の創世記の記述をどう解釈しているのでしょうか?私は、「絶対平和」や「絶対的愛」は妄想だと思います。
なお、週刊新潮06.10.26号の「変見自在」(高山正之)に、1930年代、アメリカ・アラバマ州タスキギーで実施がはじまった「タスキギー実験」が触れられています。梅毒にかかった黒人たちを治療するふりして、泳がせ(たとえばSEX自由)感染の広がり具合を40年間に渡って追跡調査をしたというのです。もちろん白人たちの仕業だそうです。