虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

3つのルート


 89.0km。9.4km。59.4km。これはなんの数字だと思いますか?――答えは本四架橋(本州四国連絡橋)の「神戸・鳴門ルート」「児島・坂出ルート」「尾道今治ルート」それぞれの総延長です(Wikipediaより)。
 「児島・坂出ルート」が傑出して短く、あとの2つはいかにも長すぎます。本四架橋の建設史の中で、一旦は「児島・坂出ルート」に一本化されたのに、何故3ルートが建設されたのでしょう?建設史を追っていきます。
 本州と四国を結ぶ架橋が発案されたのは結構早く、明治22年(1889年)には香川県議の大久保償ン之丞が提案しています。ただ太平洋戦争の前後は「船の航行に差し障る」という理由で建設はされませんでした。転機になったのは昭和30年(1955年)に瀬戸内海で起きた「紫雲丸遭難事故」。前年には青函連絡船洞爺丸の死者1155名という大惨事も起きており、186名の死者を記録したこの海難事故を契機に架橋計画が浮上します。昭和34年(1959年)から昭和36年に掛けて全5ルートが検討されます。この頃、関係都道府県(兵庫、徳島、岡山、香川、広島、愛媛など)の陳情合戦が盛り上がります。悪く言えば地域エゴですが、架橋の建設こそが地域発展に寄与すると考えていた当時の自治体を、私は責める気にはなりません。昭和45年(1970年)自民党幹事長・田中角栄が「3ルートとも作る」とし、本四公団が設立されます。ところが、昭和48年(1974年)のオイルショックで風向きが変わり、着工は延期されます。以後は「児島・坂出ルート」のみを作るというラインで推移します。


ところが昭和60年(1985年)中曽根康弘内閣のとき、貿易赤字をなんとかしたいアメリカの圧力で、日本は内需の拡大を余儀なくされ、3ルートを作ることに決したのです。(この外圧情報は
http://www-cres.senda.hiroshima-u.ac.jp/reports/pdfreport/Vol16/ken16-04.pdf
 道路公団民営化を問う  白川正照  より。)



そして昭和63年(1988年)に「児島・坂出ルート」、平成10年(2000年)に「神戸・鳴門ルート」、平成11年(2001年)に「尾道今治ルート」が開通します。田中角栄とか中曽根康弘とかの大政治家が直接タッチした国家的事業だったのがわかります。年代は「本四公団30年史」より。
 それにしても、現在大赤字の3つのルート、建設の切札となったのが、アメリカからの外圧というのが、現在の日本の有様を暗示するようで興味深いですね。本州と四国を結ぶ架橋は、コストパフォーマンス的にも「児島・坂井ルート」1本で充分だと思われるのです。その意味では昭和48年の方向で良かったはずです。 
 そして残されたのは、通常の高速道路の数倍の通行料。本四公団が民営化されても、この高負担は解消されるけしきは見えず、ゆくゆくは当該地域の財政、ひいては日本国民の経済生活も圧迫するでしょう。アメリカのいいなりになって3ルート作った、政府の責任は重いと思われます。それを民営化という小手先の改革で糊塗しようとしているのでしょうね。




今日のひと言:「速く物流ができたら」すべて良し、とは、私は思いません。高速道路のこれ以上の建設には反対です。