虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

選抜試験の過酷さと不条理さ・・・科挙を例にして  その1

 *選抜試験の過酷さと不条理さ・・科挙を例にして   その1
 (これから3ブログ、私が友人と企画したけどボツになった、日本の来歴を探る高校生向けの教科書の原稿の一項目です。対話・設問形式になっています。アップの間隔は短くします。)

A:2005年、韓国で大規模な大学入試カンニング事件が発覚したね。
 B:うん、覚えている。韓国では、出身大学、それも2,3の中央の有名大学を卒業したかしないかで、出世も決まるそうで、その過酷さは日本以上だそうだね。
 A:そうなんだ。でも、これは韓国だけの現象なのだろうか。僕はそうは思わないんだ。世界史上、画期的であった中国の「科挙」に選抜試験の持つ諸問題が凝縮されている気がする。これからの議論は、主に「科挙」(宮崎市定中公新書)を参考にしながら進めることにするね。「科挙」はその発足当初、門閥とか特権階級にとらわれず、有用な人材を登用することに世界史的な意味があったんだ。
 B:隋の治世のころ始まり、清朝末まで続くから、ほぼ1400年の歴史があるね。
  でも、それほど先進的な制度を採用していながら、19世紀にヨーロッパ列強にいいように扱われたのはどうしてなのだろう?
 A:それは、勿論サボっているあいだに、追い抜かれたからだと思うよ。試しに次の漢詩を日本語訳してごらん。

       臨洞庭     孟 浩然

          
 八月湖水平    涵虚混太清
         気蒸雲夢沢    波撼岳陽城
         欲済無船楫    端居恥聖明
         坐観垂釣者    徒有羨魚情
 設問: 上の漢詩を①書き下し文にして、②解釈しよう。 



B:えーっと、この漢詩は五言律詩で、首聯と頸聯、頷聯と尾聯が韻を踏んでいるね。また、3句と4句、5句と6句が対句になっている、教科書通りのリズムの整ったいい漢詩だね。
A:それはまあそうなんだけど、問題は、詩の中身なんだよ。書き下し文はこうだよ。


    八月、湖水平らかなり    虚をひたして太清に混ず
    気は雲夢の沢を蒸す     波は岳陽城をゆるがす
    渡らんと思うに船楫なし   端居聖明に恥ず
    そぞろに釣り人を観れば   いたずらに魚を羨むの情あり


 そして、解釈はこうだよ。

   夏八月、洞庭湖の水はおだやかだ   空を満たして天と混じり合う
   水蒸気は湖一帯を蒸す        波は岳陽城を揺るがす
   湖を渡ろうにも船はなく(役人になるつてはなく)
   自分がなにもしないでいることがことが皇帝に対し恥ずかしい
   なにとはなしに釣り人を見ると
   なにもしないでいる自分には(釣られる)魚を羨ましいという気持がある


 A:勿論、魚が釣り上げられることは「官職に就く」ことを意味するよ。歴史書漢書」にある表現を踏まえている。修辞もなかなかのものだ。さて、どうだろうね、この詩。
 B:正直に言っていいかな?なんだか詩というより、俗物根性丸出しの自己推薦状のような気がする。
 A:実は、僕もそう思っているのさ。孟 浩然(もうこうねん)と言えば、あの「春眠暁を覚えず・・・」の詩で、唐時代の詩人でも、知名度は非常に高いよね。でも、こんな駄作を作っていたことを知ったとき、僕は唖然とし、またあきれたのを覚えている。大体、この人、世捨て人だった割には余りに俗臭があるね。だけど、彼の時代、役人であることは、現代日本では想像もつかないほどの重みがあったのも忘れてはならない。身分を問わず万人に開かれた科挙は、大変価値のあるものだった。だから、現代日本でも見られそうな、以下の記述も説得力がある。


「妻が妊娠すると、早速、胎教が始まる。身ごもった婦人の行動はそのまま胎児に影響するというのがその理由で、特別に身持ちを正しくすることが要求される。坐るときにも座席や敷物をキチンと正しく整えた上に端座し、寝るにも肱枕などしてぞんざいな寝ようは禁物、いかがわしい食物を食わず、不愉快な色を見ぬように注意し、ひまがあれば傍で、詩経を読んでもらって聞く。そうすると才気の人並みすぐれた子が生まれるという。」

A:日本でも、子どもを妊娠すると、胎教と称してモーツァルトの音楽を母が聞くといいとか言われるよね。それに当たるのが「詩経」だ。古代の麗しい詩文を孔子が編纂したものと言われている。

設問:以上の引用と解説を読み、現代日本での現状と比較し、論評せよ。特に「胎教」には実際効果があるのかどうかについての考察を必ず書くこと。(500字以内)