虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

つながりによって生かされる―「痴呆老人」は何を見ているか(書評)

私の父は、6年前から「アルツハイマー病」を患っていて、今では病院で寝たきりですが、せん妄、徘徊には我々兄弟、さんざ手がかかりました。そのことを体験して、今回のブログを書いています。


 「「痴呆老人」は何を見ているか」(新潮新書)は、大井玄(おおい・げん)氏の著作です。東大医学部教授を経て、国立環境研究所所長。終末期医療に取り組まれています。曰く、「我々は程度の差こそあれ、みんな痴呆である」。(←このような文でした。)


この本で、著者が、今は既に差別用語である「痴呆」という言葉を使うのは、言葉を変えて=ラベルを変えても「異質で厭わしい(いとわしい)現実」が厳然としてあることから、安易に「認知症」という言葉を使いたくないかららしいです。


 この本、実際に妄想を見る人の話も出てきますが、分量の大半は氏のいう「つながりの自己観」と「アトム的自己観」の比較に費やされます。


 実際、痴呆状態になると、「つながりの自己観」は「まわりに迷惑を掛けるの」を、第一義的に恐れますが(これは日本も含め世界の大多数の民族に見られるものです。)「アトム的自己観」は、欧米諸国に見られるもので、世界と競争的に関わる人たちが、自分の不利さを感じ取るという具合に論点が変わるというのです。


 さて、沖縄などでは、「純粋痴呆」とも言うべき状態があるそうです。ほかの都道府県なら施設に直行するところ、そのような状態になった人も違和感なく受け入れる・・・つまり患者に「不安」を抱かせないという事例もあり、「安心」と「不安」の両極の間で患者の心は揺れ動くのです。その際、「情動」がキーになります。


たとえるなら、五分おきに同じことをたずねる老女に、最初は答えていた息子がついに堪忍袋の緒を切って、「母さん、さっきから何回同じことを聞くの!忙しいんだから、いい加減にしてよ!」。
 五分前のことを記憶していないから質問するわけですが、それ自体が、彼女の内的世界を不安という情動が支配しているのを示しています。しかし息子の怒りに遭い、不安はさらにつのり、混沌へと発達する。なぜ息子が怒るのか、理由が判らないこともあるでしょう。こういうやりとりが度重なると、不快な情動だけは残りますから、外部の情報を求め、環境とつながりをつくる努力そのものを断念してしまうのです。

   (P126−P127)

 この論理は、なんと「ニート」の有り様にも関係しているという説を、著者はこの本の後半で披露しています!!「つながる」ことも「自立」もできない状態だと言うのです。
 

 痴呆老人の話からとんでもない方角に話は飛びましたが、「つながりの自己観」と「アトム的自己観」という観点から言えば、そうそう突飛な飛躍とも言えないと思います。


 結びとして、「人間は無数のつながりによって生かされているに過ぎません」という言葉が来ます。ああ、沖縄は遠いなあ。



今日のひと言:この本は、医学と哲学の境界領域をカバーするのですが、(むしろ哲学的で)仏教の唯識論がよく援用され、仏教が好きでない私としては、ユングの「集合的無意識」くらいの例えで十分なのでは、と思います。なお、以前読んだマンガで、息子が「ぐれるぞ」と両親を脅したとき、父親が「ぼけるぞ」と脅し返し、息子が負ける、というお話がありました。随分不謹慎なマンガですね。笑ってしまいましたが。


「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

痴呆の哲学―ぼけるのが怖い人のために (シリーズ生きる思想)

痴呆の哲学―ぼけるのが怖い人のために (シリーズ生きる思想)