虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

「中間は呪いだ」:老子の言葉から考える(随想録―63)

「中間は呪いだ」:老子の言葉から考える(随想録―63)


「中間は呪いだ」という言葉を読んだことがある。それは、私が東京大学理科1類に入学して、周囲のクラスメートたちに気おされ、また数学や物理学の難解さに怯み、「この進路は正しかったのか?」と考えていた頃、浄土宗に興味を持ち、それなりの真理を求めていた時に、この言葉に出会ったのだ。ちょっと弱気になっていたのね。


この「中間は呪いだ」という言葉、人間を上・中・下の3階級に分け、最上の者、最下位の者がいて、この上・下に挟まれた中くらいの者は、なまじ自分が中等度だと思っているがために、阿弥陀如来の救いからは遠い、ということであり、最下等の者は、自分が劣っていることをよく認識しているがため、阿弥陀如来の救いに近く、浄土教的には、悪い類別ではない、ということであったとされていたと思う。もっとも、この本の名前も、著者も忘れているので、もう一度この言葉に当たってみようと、グーグルで検索してみたが、まったくヒットしなかった。さほど有名な言葉ではなかったようだ。


しかし、私の数十年来の愛読書:『老子』に、これとよく似た表現があることに思い至った。(浄土教の時のように弱気の虫が出て本を手に取ったのではなく、そうとう積極的な心理状態で手にした老子であった。)


こうある・・・最上の士は、「道」を聞けば、それを全力でもって行おうとする。中間の士は、あるがごとく、なきがごとく、動かない。最下等の士は、「道」を大いに笑う。笑われなくては、「道」の価値がない。・・・概略このように書かれている(第41章)。


ここで、むしろ、最下等の士は面白い。ちゃんと、自分なりの物事に対する評価基準を持っていて、それに照らして、「道とその実践」を笑うのだ。交渉の仕方によっては、「道」を理解して、道を実践することもあるかも知れない。こうなると、あっさり触れられている中間の士が目立ってくる。「どっちつかず」で、今の自分の境遇に自己満足しているとも言える。どうになる気もない。



私の経験上、この中間的な士には多く出あってきた。世の中の大多数を占めるとも言えよう。どうにも変わらぬ、変わる気もない「のっぺらぼう」な顔の人間たち。たぶん、例の浄土宗の解説者にせよ、老子にせよ、こういった人たちを「救いようがない」と言っているのだろう。

 (2022.11.19)







今日の7句


冬備え
クワの枝をば
刈り落とす



クワは、養蚕が下火の群馬県でも、農家が持てあます植物です。ただいろいろ利用価値があるのですが・・・

 (2022.11.16)



冬にユリ
純白の花
健気なり



 (2022.11.17)



廃屋の
葛の葉っぱも
黄葉し



 (2022.11.18)



青葉あり
落ち葉の毛布
暖かし



 (2022.11.19)



リトープス
黄色の花ぞ
付けにける



私が栽培している多肉植物

 (2022.11.19)



我汝
愛すとばかり
黄薔薇かな



 (2022.11.19)



ロズマリー
枝に産みつく
卵かな



カマキリの卵が、ここなら安心とばかりに産み付けられていました。

 (2022.11.22)