超訳とは何か?・・・そのまやかし (随想録―59)
超訳とは何か?・・・そのまやかし (随想録―59)
以下は、2010年のウエブ上の記事。
翻訳の仕方にも様々なものがある。
例えば原文に忠実に訳す「直訳」、原文の意味に捉われることなく意味を汲み取りながら翻訳する「意訳」などだ。
しかし、ここ最近、よく聞く言葉がある。「超訳」だ。
ディスカヴァー・トゥエンティワンから1月に出版された『超訳 ニーチェの言葉』(白取春彦/著)は発売1ヶ月で10万部を突破。ニーチェの思想をかいつまんで知ることが出来ると評判だ。他にもミシマ社から出版されている『超訳 古事記』(鎌田東二/著)や祥伝社新書の『超訳『資本論』』(的場昭弘/著)、など「超訳」という言葉にタイトルがつけられている。
ではこの「超訳」、もともとは何処が語源なのか。
調査をしたところ、英語学習の教材などを発行するアカデミー出版の社長である天馬龍行氏(本名:益子邦夫氏)が考案し、登録商標しているものだということが判明。
さっそくアカデミー出版にその意味について聞いたところ、「超訳とは“意訳をより洗練したもの”です」という返答を頂いた。さらに、アカデミー出版のウェブページには「自然な日本語に訳すことを目指した」ものとして「超訳」が考案されたとある。
https://www.excite.co.jp/news/article/Sinkan_index_1021/
より現代の人に解りやすくと、直訳→意訳→超訳 という具合に、翻訳も進歩したという趣旨なのだろう。しかし、私は、超訳の最悪な例を知っている。それは故・新井満氏の『自由訳 老子』。なにやら、老子の「不要な部分は捨て去り、全81章を18章に再構成した」と「僭越にも」言う。彼は超訳とはしていないが、立派な超訳である。その『自由訳 老子』の中で、新井満氏は、致命的な誤りを犯していて、それ一つだけで、翻訳者として不適格との烙印を押されるだろう。以下の過去ログをご覧あれ。
『老子』は中国の文献だから、何はともあれ、翻訳は不可欠だろう。では、江戸時代末期の「吉田松陰」などはどうだろう。平安時代の『源氏物語』などは、現代語訳した文章でも、私は歯が立たないが、『留魂録』なら、原文でも解る気がする。
ここに、『覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰』(池田貴将・サンクチュアリ出版)という本がある。さきの『自由訳 老子』のように変な本かな、と紐解いてみると、これは吉田松陰関係の文献をちゃんと読んで書いてある、まあ、普通の本だ。「超訳」というより、「意訳」である。章立てが5、6個、全176話が見開きで2話(または1話)という読みやすい形式で呈示されている。(もっとも、私は、池田氏の解釈には、さほど興味はない。吉田松陰自体も、興味の外だ。この本の文章構成の方法にのみ興味がある。)
ここで重要だと思うのは、「翻訳」自体がすでに「創作」であるという意見である。ある意味そうかも知れない。だが、いわゆる「超訳」が、「訳」を通り越し、原作者の作品とは似て非なるものになるのは問題だと思う。それは、元著書の名を借りた「偽物、出来損ないの文字列に過ぎない」ということだ。私が初めて接した超訳の『自由訳 老子』が、あまりにひどい「創作」であったので、「超訳」というジャンルには警戒心を解いていないが、まあ、この松陰本は認めることができるだろう。「超訳」ではなく「意訳」の本として。(ちなみに、この本2021年現在39刷りで、35万部も売れているとのことだ。私は、人に借りて上述のごとく読んだ。)
(2022.10.29)
今日の7句
ポリゴナム
キャンデーのごと
花を付け
ポリゴナム・ヴィクトリーカーペット。集団的に生える。タデ科。
(2022.10.31)
山茶花の
落花進めど
美しき
(2022.11.01)
一本の
センダンクサの
優美かな
一本なら、憎々しくない。
(2022.11.01)
(2022.11.01)
冬来たり
銀杏の葉が落ち
カーペット
(2022.11.02)
朝日浴び
すくすく伸びる
ギシギシか
降霜もありました。
(2022.11.03)
菊の列
一年だけで
見事なり
菊は一年草なのかな。
(2022.11.03)