ウィトゲンシュタインとアカシックレコード:知的格闘の記録
イギリス:ケンブリッジ大学特集(2/2)
ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(1889―1951)は、20世紀前半を代表する論理哲学者、さらには、普通に言う哲学者としても、20世紀前半を代表します。その主著『論理哲学論考』(1921)は、後代の分析哲学に大いなる影響を与えました。その本の出出しはこのようです――
世界は、論理的空間における事実の総和である
1. 世界は、成立していることがらの全体である。
1-1. 世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない
1-1-1.世界はもろもろの事実によって規定されている。さらにそれらが事実のすべてであることによって規定されている。
1-1-2.なぜなら、事実の全体は、いかなることがらが成立しているかを規定し、そしてまた、いかなることがらが成立していないかということのすべてをも、規定するから。
1-1-3.論理的空間のなかにある事実が世界である。
1-2.世界は事実へと解体する。
1-2-1.どのことがらも、成立することができ、あるいは成立しないことができる。そしてその余のことがらは、すべて同じままでありうる。
・・・こんな独特な感じの文章で、なにやら数学の証明を読まされているような感じを受けるでしょう?実際、ウィトゲンシュタインは、最初工学を研究し、関心が数学に転化し、最後に数学の基礎となる哲学に落ちついた人だったのですね。(表記のユレとして、以前はヴィトゲンシュタインと記されることもありましたが、現在は濁らない表記に落ちついているようです。)師のバートランド・ラッセルの推挙で、ケンブリッジ大学の教授になりました。彼は、兵士として、WW1に従軍していた際、休息中にこの本をメモっていたそうです。
私は、大学教養課程で、彼についての授業を取ったのですが、その奇人変人ぶりには大変楽しませてもらいました。一度、ひとりで山暮らしをして、下山するときは、森の動物たちがついてきたとか、小学校の教諭をやったのですが、小学生の理解を超える、大学なみの授業を滔々と行うとか・・・これらの逸話は、知的好奇心の強い、ほかの受講生の間でも受けて、流行になったものです。この講義も含めて、教養課程の講義やゼミは、私の雑学的素養の足しになってくれました。
ウィトゲンシュタイン (wiki)
ところで、おおよそ彼にはふさわしくないコトバとして、アカシックレコードというものがあります。wikiによれば
アカシックレコード(英:akashic records)は、元始からのすべての事象、想念、感情が記録されているという世界記憶の概念で、アーカーシャあるいはアストラル光に過去のあらゆる出来事の痕跡が永久に刻まれているという考えに基づいている。宇宙誕生以来のすべての存在について、あらゆる情報がたくわえられているという記録層を意味することが多い。アカシャ年代記(独:Akasha-Chronik、英:akashic chronicles、アーカシャ記録、アカシアの記録)とも。近代神智学の概念であり、その他の現代オカルティズムの分野(魔術等)でも神智学用語として引き合いに出されることがある。また、陰に陽に神智学運動の影響を受けている欧米のニューエイジや、日本の精神世界・スピリチュアル、占い、予言といったジャンルでも使われる用語でもある。アカシックレコードが存在する科学的根拠はない。
この用語は、「神智学」の創始者で、有名な神秘主義者:ルドルフ・シュタイナーの造語です。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』には、このブログ冒頭の数学的で無機的な記述とは反し、いかにもしみじみ来る言葉がたまに入るのです(特に後半)。例えば、
5-6-3. 私とは、私の世界に他ならぬ。(つまり小宇宙。)
6-0-3-1. 数学にあって、集合の理論はまったく不要である。
6-3-1-1. 死は人生の出来ごとにあらず。ひとは死を体験せぬ。永遠は時間の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生を生きる者は、永遠に生きる。われわれの生には終わりがない。われわれの視野に限りがないように。
6-5-4. (前半略)読者はこの書物を乗り越えなければならない。そのとき かれは、世界を正しく見るのだ。語りえぬものについては、沈黙しなければならない。
他にも、「希望はしない」とか「私が死ねば、世界は終わる」などの文言を覚えています。(注:以前書いた過去ログに、「希望」に関するものがあります:
現代数学では、「集合論」こそ、数学の基礎とされていますので、上の主張は誤りであることが解ります。このような誤謬はさておき、ほかの記述はなるほどな、と思ったものです。)
このあたりを指し、私はウィトゲンシュタインの言葉『論理哲学論考』はアカシックレコードに「確かに」書き込まれているのだろうと考えるのです。特A級の扱いで。
(17) 人として弱いということは、生きていくうえで受けるべき苦しみを自分で受けとろうとしないことだ。
この言葉は、彼のどの著作からの引用か不分明ですが、至言だと思います。
https://live-the-way.com/great-man/philosopher/ludwig-wittgenstein/
(ウィトゲンシュタインの名言20選)のうち17個目。
今日のひと言:以前、植物学者:牧野富太郎さんに関する記事を書いたとき、『論理哲学論考』の訳者のひとり坂井秀寿という人が、そうとうな暴言を吐く人であると記述しましたが、ウィトゲンシュタインには瑕疵はありません。彼は晩年、ガンに侵され、その痛みで思考できない=哲学できない ことのみに苦しみ、一度そのガンの痛みから解放されたとき、思う存分哲学をして、“幸福な”死を迎えました。曰く「あの連中に伝えて欲しい、私の人生は素晴らしいものだった」と。これが彼最期の言葉でした。彼の哀しくも美しい文体、わたしもそんな文体を目標にして、また『論理哲学論考』も超えねばなりますまい。
今日の6句
むしられて
実一つ成らぬ
柿の木か
(2021.10.22)
風強く
葉の裏白
覗き見え
(2021.10.23)
初に見る
蔦の実たちが
たわわなり
(2021.10.24)
恥ずかし気
葉に紅見ゆる
葉ボタンや
(2021.10.24)
ネグラなき
鳥はいずこで
休むやら
今春、伐採された雑木林(写真右)、すぐにも農地に使えそうですが、そこを根城にしていた鳥たちはどこへ行ったのでしょう?
(2021,10.27)
夾竹桃(きょうちくとう)
枝打ちされて
爪を研ぐ
猛毒の植物。姿は優しいのに。
(2021.10,27)
今日の写真集
銀杏並木の黄葉 うん、味がある。 (2021.10.24)
満開の菊花。 (2021.10.27)
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“Diamond cut Diamond--Ultra-Vival”
https://iirei.hatenadiary.com/
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虚虚実実――ウルトラバイバルとはダブりませんので、こぞって
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