虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

後白河法皇と政治・今様

2012年大河ドラマ平清盛」にあわせて その2


 「今様:いまよう」については先のブログで紹介しました。その集大成である「梁塵秘抄:りょうじんひしょう」の撰者は、後白河法皇(1127−1192)です。彼は、一種の流行歌であった今様に大きく関わり、10代の頃から「喉を枯らすほど」熱中し、この文化を広めるのに大きな役割を果たしました。また、各種の絵巻物、たとえば国宝「信貴山縁起絵巻」や「病草紙絵巻」などの編纂にも大きく関わり、芸術の守護神パトロンのような存在でした。


 では、政治的な彼・・・後白河法皇はどんな存在だったのでしょうか?彼はこの時期の天皇としては、例外的に歳をとってから即位しています。1155年、29歳。その他の天皇がやれ5歳、やれ10歳で即位しているのと比べ、極めて遅い年齢です。この理由は、後白河が当時の上皇法皇から見てワンポイント・リリーフだったからだろうとされます。
(「後白河法皇」:棚橋光男:講談社選書メチエ65)


 でも、後白河は、貴族の世から武士の世に移り変わるその結節点にいる大政治家と見なさざるを得ないようです。


 武士が天皇にとって替わろうとした事例は日本史上最低2回あり、その一回目は承平・天慶の乱における平将門(たいらのまさかど)、二回目は室町幕府3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)で、ほかの覇者は大体天皇に成り代わろうとはしませんでした。でも、歴史にイフがあったなら、源頼朝皇位を兼ねるようなチャンスはあったと思います。


 おそらく、それを防いだのは、後白河法皇の政治力だったのではないかと思います。彼は、日本史上初の武家による政権・・・平清盛による武家政権とは付かず離れず、適度なスタンスを取り、清盛が天皇家を乗っ取る気をおこさせなかったのでしょう。


 そして、後白河が真骨頂を発揮したのは、源頼朝源義経兄弟の離間策かと思います。あれほど後白河にとって親密だった平家を滅ぼした義経に対し、後白河は「検非違使」の長官という冠位を授けます。まあ、警察の長官と言った官職ですね。


でもこれは、当時朝廷とは異なる価値観の武家政権を作ろうと模索していた政治家・頼朝にはとんでもない話で、武将である義経を排斥するのに十分な理由でした。この兄弟、価値観がまったく違っていたのですね。(武将と政治家のすれ違い。)2人の関心の違いによるこの齟齬を、後白河法皇が意識的に突いたのか、偶然なのかは解りませんが、とにかく事態の推移は後白河法皇の思い通りに進みましたね。(なお、後白河法皇義経に頼朝の追討の院宣(いんぜん)を出していますが、義経不利とみれば取り消しています。)


 頼朝は、後白河法皇を「日本一の大天狗」と呼び、「喰えない奴」と思っていたそうですが、直接会って、わだかまりを消して、朝廷と幕府の共存・共栄関係を是認したのですね。この蜜月は1221年、後鳥羽上皇承久の乱を起して鎮圧されるまで続きます。


平治物語」によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と同母兄・崇徳上皇酷評されていたという。皇位継承とは無縁と目され、帝王教育を受けることもなかった。即位も正統後継者たる二条天皇の「中継ぎ」としか見られなかったために権威が欠落していた。後世「治天の君として平清盛源頼朝と渡り合った」として知名度の高い天皇ではあるが、即位当時は誰一人想像もつかなかったことであろう。

Wikipediaより



今日のひと言:芸術と政治、この相反する二分野において、異彩を放つ後白河法皇、日本史上、重要な人物100選には必ず入るでしょうね。怒涛のような武家政権の中で、朝廷を保存できた人であり、類い希な芸術のパトロンだったことにおいても。そして面白いのは、後白河法皇の没年1192年は、きしくも鎌倉幕府の発足した年だったのです。文化的活動においては、室町幕府の8代将軍・足利義政(1436−1490)も華々しい活動をしていますが、政治には不熱心で、妻の日野富子と跡取り争いをして応仁の乱を招き、幕府の衰退に繋がったことを考えると、人間の器量としては後白河法皇が勝っていたと思われます。


なお、大河ドラマ平清盛」で後白河を演じるのは、故・松田優作の次男・松田翔太であることも見逃せませんね。どんな後白河像を見せてくれるか。

後白河法皇 (幻冬舎新書)

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